見出し画像

現象論私釈

現象論というのが非常に難しくて、いまいち理解に及んでいないのだが、その大きな原因は、現象とはなんなのか、ということがよくわからない、ということにありそう。書きながら調べたりして理解を深めようとした文章なので、あっちに行ったりこっちに来たりで、文意が安定していません。現象論理解の推移だと考えてお読みいただけるとありがたいです。そして多分色々と間違っているので、ご指摘やご指導、ぜひよろしくお願いします。

現象?

ヘーゲル的には、現象とは存在の後ろにある背景のようなものをイメージしているのではないのか、と考えられ、それに対してフッサールは存在を自明としないことで浮かび上がるもの、後期にはその発生についてが対象になったのだろうか。そして、ハイデガー的にはその解釈が現象である、というふうに定義されているように感じる。要するに現象とはなんぞや、ということを考えるのが現象学である、と言ったところだろうか。
それは多分、あまりにさまざまなことを現象としてまとめようとしてしまっているのではないか、と感じる。私なりに整理するに、おそらく、現象とは、社会現象に限って言えば、個々人の意志の総体の表出なのではないかと感じる。起きている現象が自分の意志の結果でなければ、それは必ず誰かの意志の結果であり、それも特定できなければ自然現象ということになりそう。

現象定義の難しさ

意志の結果としての現象を客観的に分析するのは非常に難しい。というのは、なにがそれぞれの意志なのかを見極めるのが難しいからだ。行動を完全に把握すれば、誰のどのような意志がどのような経路を辿ってどのような結果になったのか、ということを把握できるのだろうが、それは超監視社会においてのみ可能なこととなる。そして、政治にしろ、経済にしろ、権力や富に関して人間関係は駆け引きの占める割合が非常に高く、人は、他者の意志についてなにがわかっていてなにがわかっていないかについて明らかにはしないことが多い。だから、個別の意志について追跡するのは難しく、それゆえに、個別意志の集合体である現象というものを定義すること自体非常に難しくなる。

ハイデガー的対応

ハイデガー的に解釈が現象だとすれば、事後的に全部意志だったということもできるし、逆に全てが意志ではなかったということもでき、そうなると現象は自然現象でなければ事後的にしか発生しないことになる。

現象ありきのフッサール

現在の現象論は、特にフッサールについては、現象ありきで話がなされているように感じる。存在は自明ではないが現象は自明である、というのは私にとっては受け入れ難い。自明なのは存在であり、現象はあくまでも付随的なものであろう。その違和感からハイデガー的な解釈現象論となったのではないだろうか。

意志と現象の分別

現象に惑わされないようにするためには、なにが自分の意志で、そして個別現象についてできる限り誰の意志なのかということを特定しておく必要があるのだろう。もっとも、他者の意志についてそこまで全て特定仕切れるのかというのは疑問であり、そうなると、自分の意志ではない現象について、違和感があればそれを表明し続ける、ということが必要なのだろう。現象への違和感こそが自我の存在であると言えそうで、そして誰もがその自我を摩擦なく表明できる世界、違和感が積極的に解決され続ける世界こそが望ましい世界なのだと言えるのではないだろうか。

現象についての学問ではない現象論?

ここまで書いてから、もう一度Wikipediaを読み直してみると(結局Wikipediaレベルで止まっており、原典はもちろん、関係論文にあたろうともしなくて、なにがわかるのか、という気もしますが、Wikipediaを見てわからないことが原典を見てわかるわけがない、という勝手な思い込みから、Wikipediaでせめてなにがわからないのか理解できるようになってから、先に進むならば進みたいと思います。)、おそらく最初から、大きなボタンのかけ違いがあるように感じる。つまり、現象学とはそもそも現象についての研究ではないのではないか、ということだ。ヘーゲルは、「精神についての現象論」について研究しており、それは現象とはなんぞや、ということよりも、なんらかの現象をもたらす意識とはなんぞや、ということの方に焦点を当てているように感じる。そして、それに対応するようにフッサールが、意識とその活動の結果として現れる現象の機構的反映と構造についてを現象学として定義した。つまり、現象自体ではなく、意識の結果としての現象の仕組を明らかにしようとしたのだと言える。そしてハイデガーはその意識という志向性の現象を考察することで存在というものを明らかにしようとしたのだと言えそう。

意識論としての現象論

要するに、今言われている現象論とは、基本的に意識論であり、志向性、意志について、そしてそれがもたらす結果としての現象を研究するものだということなのだろう。そこには、現象が単一の意識で起きるのだ、という前提があるようで、そこから意識統一のような全体主義的思考が生まれてくるのでは、と感じる。個人的には、現象は完全に意識によって起きるわけではなく、自然のみによって起きるものももちろんあるし、そして多くのことは意識と自然との関わりの中で、そして意識と言っても統一の意識ではなく個々人によって異なる意識の混じり合いによって生まれるものではないかと考えられる。それを、意識がもたらす現象が現象論であるという非常にざっくりとした話を、妙に緻密な哲学体系チックなものにしているために、中身もないくせに権威だけがあるように、現実世界に重くのしかかっているのではないだろうか。


以下、三百字ほどですが、妙なことを書いているので、有料とします。自己責任にてお願いします。

ここから先は

318字

¥ 500

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。