情報鞘取りと社会、そして政治

社会で仕事をする、あるいは生きる時に、人に何かをお願いするのに、社会の関係性を使って、ということになると、あいつがこう言っているからこうだ、というような文脈的な情報の広がり方をすることになる。そうすると、恩を軸にして、義理人情の文脈トークンを発行し、それを切り売りすることで情報拡散と対価としてのその切り売りからの余剰を得て、結果的に情報を人脈の間で鞘取りする、ということになる。

情報の大量生産大量消費

口コミのマーケティングが広がると、この鞘取りをマスレベルで行うようなインフルエンサーの存在が大きくなり、それによって情報も大量生産大量消費の時代になっていると言えるのかもしれない。しかしながら、それは情報の画一化をもたらし、せっかくの多面的な意味を含む情報が単純化され、それによって世界が平面化するとも言えそうだ。

情報交換の難しさ

情報が中心を占めるようになった社会において、この情報交換というのは非常に難しい局面を迎えているとも言えそうだ。というのは、フラットな情報交換において、どちらが何を頼んだのか、というのは難しい問題であり、ただ相互理解を深めるために自分のことを話すということが、その話の拡散を頼まれたのだ、というように受け取られ、トークン化して拡散され、結果としてそのようにトークンとして拡散したものを必死になって回収に回らないといけない、ということになってしまうということがある。そのために、対話において本音を話すということが難しくなり、譬え話や仮の話で、観測気球的に話をしながら文脈を組み立ててゆく、ということになってゆく。

トークン化による情報ループ

そうなることで、文脈の所有権争いのようなものが激しくなり、誰がどの文脈を持ち、それを誰が守っているのか、というような関係性が重視される世界となってゆく。そんな中で、上に見たような情報の大量生産大量消費の時代となると、文脈も画一化されることで、似たような話がそこらじゅうに溢れることになる。そこで、最初に見た恩と義理人情のようなものが再び重要になるのだが、それがまたトークンによる鞘取りを行うようになると、どこまで行ってもトークン化された文脈を追いかけ続けるということになってゆく。

メタ文脈管理

そうなってゆくと、文脈を整理し、それを誰に割り当てるのか、というようなメタの文脈管理を行うことで、自分に有利となるような情報の流れを作り出し、情報の利幅を上げるということが行われるようになる。それこそが情報の鞘取り業とも言える立場であり、それがさらに進むと、自ら文脈を構築するよりも、他者の文脈を整理し、その間に入り込んで文脈と文脈を絡み合わせたり、切り貼りしてトークン化することで、元の文脈を換骨奪胎して自分のものにしてしまうということが起こる。

情報鞘取り競争のメカニズム

情報拡散自体は、新認識の納得が広がるというプロセスであると言え、新たな認識を自分の中でどう整理するのかというのがその中心となってゆく。それが、具体的な対話の中での新認識ならば相手が特定できるが、空気を読んで、あるいは神からの啓示のようなことになると、その新認識の所有権というものが特定できず、閃いた時にすぐに誰かに話して自分の存在をアピールし、所有権を確保する、という情報鞘取り競争が激化してゆくことになる。
それが利益の絡むような話となると、その競争はさらに激しさを増し、最終的には資本力がものを言う、というような体力勝負の弱肉強食の世界となっていきかねない。経済における情報の役割が増す、というのは、このようなメカニズムを作用させることになるのだと言える。

権力闘争における情報

一方で、より微妙な情報が状況の変化に結びつきやすい権力闘争では、新認識を表明すること自体が大きな影響を及ぼすので、認識の更新というのが表の変化としては起こりにくく、水面化の駆け引きや表情や仕草からの忖度、そして空気の流れといったものがより重要な役割を果たすことになる。だから、鉄砲玉のような存在に派手なパフォーマンスをさせてその隙に自分に有利となるように新認識を広め、固めてゆく、ということが行われる。

民主主義下の情報

これに民主主義という要素が加わると、このような駆け引き的な要素が社会全体に広がる一方でビジネスは政治的には鉄砲玉のような存在となることで、万人の万人に対する権力闘争の中での権力階層を上ることを目指したパフォーマンス重視の椅子取りゲームが繰り広げられることになる。つまり、何らかの利益にありつくために、政治的パフォーマンスを行い評価を得ることでその立場を上げるということになり、そして政治的パフォーマンスは自分の何らかの資産を対価として政治的に消費させることで行われることになり、つまり政治的資産がなければ将来に何の見込みもない状態に追い込まれることになる。そうなると、大量生産大量消費の情報にしがみついて競争せざるを得なくなり、そこからこぼれ落ちた空気を拾う政治勢力が強固な力を持つようになる。

情報によって空気を作り出す力

そうなると、一つにはその空気を拾って考え方を特定の方向に誘導し、政治的に昇華させる手法に長けた政治的組織が、空気の支配も含めて世論全体に大きな影響力を持つようになり、代表制間接民主主義の世界、特に勝ち負けのはっきりする小選挙区制度のもとでは、確実な票が期待できるこの勢力は無視し得ない力を持つことになる。一方で、それを拡散するメディアは情報の大量生産大量消費の胴元とも言える存在であり、文脈整理による情報鞘取りを高度な戦略性を持って行うので、そのトークンの拡散力はその戦略に基づいて社会の中に空気の流れをつくりだす。そしてその空気の中で生まれた新認識を自らのスタンダードによって刈り取り、その対価として空気の中で遊ぶ権利のようなものを暗黙のうちに認め、空気の中で踊る限りにおいてはその遊びはメディアの戦略性に基づいた政治的構図の中で消化しうる、というある種の大人の知恵を埋め込み、それによって読者を政治中毒者に変えてゆくのだと言える。

政治ゲームの是非を問う

この、ハンドルとエンジンというべきか、前輪駆動と後輪駆動というべきか、とにかく情報の扱いに長けた政治的原動力が、特にこれらの力を増幅させる小選挙区制度においてますます力をつけているのではないかと私は観察している。そして、それらはあたかもこの政治ゲームが正しいかのように、政治参加を煽り立てる。しかしながら、このような政治のあり方は本当に多くにとって望ましい方向へ向かうものなのか、今一度ゆっくり考える必要があるのではないだろうか。迫り来る情報主導社会が自立した個々人による対話と納得によって進んでゆくことを心から望む。

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