情報とデータ1

情報とデータの違いはどこにあるか。英語で不可算名詞となる情報とはフローであり、可算名詞のデータはストックになるのではないだろうか。

情報とは、止まることなく常に変化しているものであり、認識した瞬間に解釈が入ってすぐに変化し出す。一方で、データはある時点における情報を固定化して可視化したものであり、それは基本的には動かない。動かないので、それを用いて定量的な分析ができるようになるし、また、他と比較した定性的な分析も可能になる。動いているものをそのまま比較して分析するというのは容易ではないので、一旦固定させて分析対象にする、という方がはるかに現実的になる。

これは、量子力学における量子の波と粒子の二つの性質に付合しているのかもしれない。ただ、量子力学においてのこの性質の違いは、視点・立場に由来するものではないかと考えられる一方で、情報とデータの違いは抽出手法の違いによるもので、だからデータに揺らぎはなく、あるデータは誰が見ても同じもので、あるとしたら解釈の違いに限られる。また、情報は固定した段階でデータとなるので、果たして情報というものが存在するのか、というと、哲学的にはちょっと難しい問題になるのだと言える。その意味で、英語における可算名詞、不加算名詞というのは、哲学的にその具体的存在を定義可能か否か、ということなのかもしれない。少し脱線したが、情報というものが非常に広範で曖昧な概念として使われるのには、このような存在の定義の難しさが影響していそうだ。

さて、ここで果たして情報とデータは本当に一致しうるのであろうか。つまり、情報をデータに変換したときに、それは正確に情報をデータ化したと言えるのか、ということだ。そこで、そもそも「正確に」という正確さを一体誰がどのように定義できるのか、という問題が発生する。つまり、データが正確か否かというのは、データ作成者の感覚一つに大きく依存しているのだと言える。そのことが典型的に問題になったのが、中国での大躍進の時代にやたらとデータが水増しされて出てきた、ということであろう。しかし、それが感覚的におかしいと思ったとして、いったい誰がその間違いの原因がどこにあるのか、ということを特定できるのであろうか。それができないとしたら、管理者とはいったい何を管理しているのであろうか。感覚的におかしいと思ったことをおかしいというのが管理者だということなのだろうか。それは、被管理者は感覚的におかしいと思ってもおかしいといえないが、管理者はそれができる、という対比の上に成り立つ定義であると言えるのではないか。だとしたら、管理者の存在は、それ自体被管理者の感覚を抑圧することによって成り立っているということにはならないのか。

エビデンス・ベースの社会というのは、尤もらしく聞こえる一方で、このようなデータ管理者による解釈独占の可能性があることに十分留意すべきなのだろう。典型的には利益至上主義というのは、個々人の努力がなんであれ、利益に反映されなければ意味をなさない、という考え方であるといえ、それ自体管理者の権力の大きな源泉となる。つまり、エビデンスを求められれば、そのエビデンスを有利にするための明示的・暗黙の圧力は、管理者にも管理責任という圧力がかかる以上、常にかかり続ける、という基本的な構図は頭に入れておくべきなのだろう。それが大規模に起こったのが中国での大躍進であるというだけのことで、それは構造上どこにでも起きうる話であるということなのだ。

そのような構造が厳として存在するときに、果たしてDXとは如何なる姿であるべきなのか。例えばそれを推進する人物が「工学的」にそれを用いる意志を持つ、あるいはその流れを汲んでいるときに、そのようなデータの工学的利用を前提としたDXは果たして社会に、人に幸せをもたらすのだろうか。人に対して「工学」を適用しようなどという恐ろしいことを考える人物は、データを扱わせたりするのに相応しいのだろうか。まずは、担当者、責任者のその辺りについての心構えを明らかにしていただく必要があるのではないだろうか。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。