記憶の狭間を埋める旅(9)

第一次世界大戦の直接的原因(2)

第一次世界大戦に至る原因を探るには、やはりドイツの動きをしっかりと理解しないとどうにもならない。前回カプリヴィ政権となって親英路線に舵を切ったというところまで見たが、その後、この路線はまた迷走する。この迷走がなければ、第一次世界大戦は避けられたのでは、という気もするので、その背景を追ってみたい。

イギリスの動向

まずは、相手であるイギリスの動きを追ってみたい。

イギリスは、ボーア戦争で孤立した後の1900年代になって、ヨーロッパ大陸の列強国から距離を置く(いわゆる栄光ある孤立)政策を放棄した。イギリスは植民地問題に限定して、植民地問題での二つの主な競争相手と合意を結んだ。即ち、1904年にはフランスと英仏協商を結び、1907年には英露協商を結んだ。

Wikipedia | 第一次世界大戦の原因

この前の1902年の日英同盟がこの栄光ある孤立路線からの離脱の最初の一歩であったと言えるが、日英同盟については対独同盟であったのでは、との指摘を”第一次世界大戦前史(2)”でした。それはこの後の仏露との協商を見ても確認ができそう。Wikipediaではこの後その原因を

  • 主にドイツの独断的な外交政策と、1898年からの英独建艦競争につながるドイツの海軍力増強に対応したもの

  • イギリスがドイツと同盟を組んでも、その他の列強たちと互角になるほどドイツは強くないため、協約を結んでもイギリス帝国の安全保障が達成されないことから、イギリスはドイツよりもフランス、ロシアを選んだ

との見方を示している。それは、ドイツに対する警戒度の違いだといえ、その意味で相互防衛を義務付けたものではない仏露との協商という形態をどう考えるのか、という問題だとも言えそう。

ドイツの事情

そこまで見たところで、ドイツ側の事情に戻ってみたい。

即位前のヴィルヘルム2世はドイツ帝国の建設者であるビスマルクを尊敬していたが、即位後には親政に邪魔な存在となっていた。ヴィルヘルム2世は「老いた水先案内人に代わって私がドイツという新しい船の当直将校になった」と述べ、これによって社会主義者鎮圧法は延長されないことが最終的に確定されると同時に「世界政策」と呼ばれる帝国主義的膨張政策が展開されていくことになる。
ヴィルヘルム2世とカプリヴィは、ビスマルク時代と方針を転換して、労働者保護政策を推進した。この方針転換は「新航路 (Neue Kurs) 」と呼ばれた(ヴィルヘルム2世は「航路は従来のまま、全速前進」と述べていたが、実際にはビスマルク時代から大きな変更が加えられたことから新聞などによってこう呼ばれるようになった)。
こうした「新航路」政策が行われた背景には、与党「カルテル」3党がぼろぼろになった今、左派自由主義勢力と中央党を懐柔したいという思惑があった。そして労働者をドイツ社会民主党 (SPD) から切り離し、政府を支持させる意図があった。
しかし、カプリヴィは1892年初頭に帝国議会第一党であるカトリック政党中央党に迎合するため、ビスマルク時代に徹底的に分離された教育と教会を再び結びつけようとして、カトリック教会の教育への介入を大幅に認める学校教育法の法案を議会に提出した。これは議会内の自由主義勢力の激しい反発を招き、廃案に追い込まれた。ヴィルヘルム2世もカプリヴィの提出したこの法案に対して「絶対反対」の立場を示した。

Wikipedia | ヴィルヘルム2世

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