持たざる国 逆戻りの日本

8月2日付「百年 未来への歴史」の2回目。今回は国力に焦点を当てている。

GDPという言葉自体は90年代になってからGNPに変わってよく用いられる様になったと記憶しているが、それが1940年代に生まれたという記述が事実なのかどうかは疑わしいとしか言えない。未だ植民地が多く存在する中で、Domesticという概念をブロック内全部と定義するのかどうか、と言うのは、ブレトン・ウッズ会議の基本的な考えを定める重要なことだと思われ、そんなことならばきちんと調べるまでもなく記録に残っていそうだが、どうも朝日記録の中で強く残っていることの様で、真剣に取り組まないと出てきそうもないからだ。ジャーナリズムとして、毎回毎回、この様な微妙にツッコミの対象になるようなことから始めるのは、もはや朝日病とも言える宿痾というべきか。冒頭に微妙なフィクションを流し込むことで、情報の流れにマーキングができるので、今後GDPが1940年代生まれというネタなった時は、それは自分のネタの上で動いている、と悦に入り、さらに情報管理に余念なく勤しむことができるからだ。朝日というのは、そうやってテクニカルにフィクションをあたかも事実として積み上げるという手法で、今ある様な、ザ・朝日ワールドを営々と築き上げてきたのだろう。嘘だと指摘しようとしても、もはや一体どこから嘘なのかわからない様なテクニカルフィクションだらけで手のつけようがなく、朝日踊りで右往左往するしかない、という、悲しい朝日病患者が大量発生するのだろう。

いずれにせよ、そこで比較の起点になっている1920年というのは、朝日によればGDPの発明!前であり、推計値ということになるのだろう。おそらく好景気であった第一次大戦中の方がもっと高かったであろうし、一方で3年後の関東大震災後だったらどうだったのか、ということもある。そして、上の話で考えれば、台湾や朝鮮はこの中に含まれているのか、という興味深い問題がある。しかし、朝日はそんなことを意に介すこともせず、一気に90年にまで時計の針を動かす。プラザ合意後の円高で、円は倍の価値になっており、それを考慮に入れれば数字は半分の4.3%に補正して考えることもできそうで、それほどインパクトのある数字にはならない。新聞社に行く様な人は、経済学を学んでも、いかにしてこの様に数字のマジックで読者を丸め込むか、という様なテクニックをしっかりと身につけるのかもしれない。さて、ここでも上の話で考えてみると、GDPの流布は93年の国連による主導によるものなので、90年ではまだGNPであった可能性が高い。つまり、海外への日本企業の直接投資もその中に含まれている可能性があり、そして実質的にはその額があまりに巨額であったためGNPでは実際がわからないとなってGDPの採用に繋がったという可能性も考えられる。そうなると、円高補正以外にも、海外直接投資補正もしないと実態がわからないということになり、そこまで入れると、数字の違いはもはや誤差の範囲内ではないか、ということになってしまう。そのマジックで膨れ上がった数字によって、GDPの採用やら、構造改革圧力やらに晒され、必要もない構造的破壊圧力で国内社会はボロボロになり、失われた20年、30年へと突入してゆくことになる。数字に依存するということの愚かしさをここまで如実に示した例も少ないだろう。
そんなGDPの将来予測を出されて悲観するということのおろかしさ。そんな予測が当てになるのかどうか、とはいっても相手は大手投資銀行なので、マーケット次第でそれに近い数字を作り出すことは可能なのだろうが、何にしても、そんな数字に一喜一憂することの虚しさ。それよりも、自己の目標をしっかりと打ち立てて、自分で満足のいくようにそれを一つ一つクリアしてゆく方がはるかに生産的ではないか。

そして、結果としてGDPが伸びなければ、どんなに防衛費のGDP比率を上げようとも、実質的な額は伸びてゆかないという、首相の見事な一人相撲を眺めることになる。ゆがんだ現状認識に基づくゆがんだ予算は、何にしろゆがんだ帰結にしか至らないのだろう。

2面に移ってDIMEなるもの。まあまた煽って、それらしい意見が出てきたらそれを摘んで、という、これもまた朝日らしいやり方だと言える。軍事はともかく、外交、情報、経済については折に触れて書いているので、別にここであらためて書くことはしない。ただ、戦前のDIMEの志向性について、海軍軍縮条約からの流れが描かれているが、構想は可能性で、失敗した構想はゴミの山に見えるかもしれないが、そうはならなかった可能性もあるということには留意したい。満州国承認から国際連盟脱退、そして日独伊三国同盟という経路は、五族協和の非国民国家という非国際連盟的国家を、非国際連盟の枠組みで実現しようとした独自外交の取り組みであったと評価することもできないことはないのだろう。外交の理想と現実が全く違う方向に進み、今となっては見る影もないのだろうが、そういう努力を単に切って捨てていたら、可能性はどこまで経っても開けない。三国同盟での対共産主義というものはあるにしても、基本的には明確な仮想敵国を持たないというあり方も、同盟としては割合に平和的で悪いものではない、という気もしなくはない。非連盟同盟というオルタナティブがうまく機能すれば、それはそれで多様な世界が冷戦なしで実現された可能性もあるだろう。

防衛費にテーマが集中している様に感じるが、私はやはり情報の前線をもう少し生産的なところに設定することで、議論が平和構築につながってゆくという経路を作る、ということが一番重要なのではないかと感じる。すなわち、たとえば満州については、すでに何度か触れている通り、漢民族にとってもアプリオリにその支配の正当性を主張できる場所ではない。そこでやはり満州国というものについての共同研究を積極的に行ってゆくことで、アジア的な多民族融和がいかにして可能なのか、ということについて議論をリードしてゆくといった様な、平和的な議論の場をできればいくつも立ち上げて、先鋭化してしまいやすい直接的な防衛や安全保障の話から少し距離を置いた環境を整備することが必要なのではないかと感じる。満州にしろ、台湾にしろ、相互不理解が相互不信につながれば、西洋からの介入を招き、歴史観にも西洋的価値観が入り込んでますます解決が難しくなる可能性がある。そうならない様に、お互い立場に違いはあるだろうが、それでも議論をし、認識を少しでも埋める様継続的な努力をしてゆくことで、空白部分に他の価値観が入り込んできて整理が難しくなるという状況を防いでゆくことが重要になってゆくのではないか。

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