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【ニクソン・ショックを探る】文化大革命(下)

文化大革命自体は、実は前回書きかけた『劉志丹』という小説に関わる、毛沢東と劉少奇との権力争いだと言えると思うのだが、『劉志丹』に触れると文化大革命について今回ではまとまりきらなくなるので、それはまた別の機会があれば書くこととする。現代的には『劉志丹』の問題の方が実ははるかに影響が大きいので、それはそれでまとめる必要があるのだろうが、ここでは別に譲る。

二月提綱

さて、ここまで回り道しているのは、一体文化大革命とは何を意味し、それがいつ始まったものなのか、というのがなかなか整理がつかないからで、その本質が毛沢東と劉少奇との権力争いであると考えると、その起点は、一般的には 五一六通知といわれるが、それはその年の2月に北京市長の彭真を団長とする「文化大革命五人組」が出した《二月提綱》への対応であると言えるので、その《二月提綱》からみてみたい。

二月提纲全称《五人小组向中央的汇报提纲》,由于其成文时间而得此称谓。该文件是1966年2月中国共产党“文化革命五人小组”召开专门会议后,向中共中央的汇报文件[1]。1966年2月,以北京市長彭真为组长「文化革命五人小組」,發表《關於當前學術討論的彙報提綱〉,即《二月提綱》,主張把《海瑞罷官》的問題局限於學術討論範圍,但随后不久,这个提纲就为毛泽东所否定和批判。1966年3月下旬,毛澤東与康生、江青、张春桥等人谈话,要求撤消《二月提綱》,並批判彭真,之後批判浪潮席捲全國。

《二月提綱》は、1966年2月の「文化革命五人小組」が開催した専門会議後に中国共産党中央委員会に報告された「現在の学術的議論に関する報告要綱」で、「海瑞罷免」の問題を学術的な議論にとどめることを主張したが、3月下旬、毛沢東は康生、江青、張春橋と会談し、《二月提綱》の撤回を要求し、彭真を批判し、その後、批判の波が全国に押し寄せた、ということで、これが5月4日から26日まで北京で開かれた中共政治局拡大会議へと繋がった。

文化革命五人組

文化革命五人組は、64年7月に学術批判活動に責任を持ち指導するものとして毛沢東によって提案されたもので、組長彭真、副組長陸定一、そしてメンバーとして康生、周揚、呉冷西がいた。この中で、康生は中国共産党情報機関の責任者で、文化大革命の黒幕といって良い人物で、呉冷西は大躍進の時に新華社の社長と人民日報の編集長を兼ねていた。

65年2月3日に5人組は拡大会議を開き、彭真は、吴晗や彭徳懐の問題は海瑞の解任、廬山会議とは何の関係もないことが確認され、吴晗の問題は学術的な問題であり、学術的な批判は行き過ぎてはならず、慎重に扱うべきである、とまず説明し、それをもとに議論が行われ、《二月提綱》がまとめられた。2月5日に劉少奇が中共政治局常務委員会にかけ、討議し、採択された。基本的に毛沢東はこの時点では、中央軍事委員会主席と、中共中央委員会主席でしかなかったので、常務委員会に出席していない以上政策等に関して特に報告義務はなかったのだと思われるが、一応筆頭常務委員ということもあり、おそらく康生が主導して2月7日に毛沢東に電報を打ち、8日に彭真、陸定一、康生が直接武漢に毛を訪問して報告した。それに対して毛は賛否を明らかにしなかった。このやり方が毛の政治力確保のやり方であると言える。結局11日に彭真は武漢から中央に電報を打ち、それが政治局常務委員会で回覧された後、中央文件として発行された。

それが、3月下旬になって、毛沢東は康生、江青らと何度も話し合い、《二月提綱》が階級の境界を混同していて間違っていると批判し、《二月提綱》の撤回通知を全党に出すよう指示したのだ。

世界への波及

これは、世界的な共産党体制の再構築につながる動きとなった。まず、一応、毛沢東は常務委員の筆頭ということになっているが、常務委員会に出席していない上に、そもそも常務委員の間に序列があるのか、ということについて、それまで大きな問題になったことはなかったのでは、と考えられる。その上で、国家主席である劉少奇が中共の政治局常務委員会で採択したものを、出席していなかったのにも関わらず、一応は筆頭常務委員で中共中央委員会の主席である毛沢東の許可をとった上で再び政治局常務委員会で回覧され、それが正式な文書となったのにも関わらず、それが毛の一存で撤回されたのだ。それにより、劉少奇よりも毛沢東、そして国家主席よりも中共中央委員会主席の方が格上である、つまり国よりも共産党の方が格上であるという形式になったのだ。

そんな状況になったことで、水面下でいろいろ駆け引きがあったのではないかと思われるが、この問題は、共産党の本場であるソ連に飛び火することとなった。3月29日から4月8日にかけて、ブレジネフが党の第一書記となって初めてとなるソ連共産党第23回会議が開かれた。ここで、ソ連とは一体何を意味するのか、ということで、各国共産党の上部組織であるとすると、中国で起こった国家主席の主催した政治局常務委員会を確認した中央委員会というのが国別のものの上位機関になるという解釈も可能になり、つまりソ連なるものの中央委員会であり、その主席が毛沢東である、という主張が可能になる、ということだ。そんなことで毛沢東の独裁が確立してはかなわん、となり、その会議の冒頭で、ブレジネフはChinese-Soviet relations are not satisfactory.と語ったという。そして、その会議の最終日の4月8日にブレジネフはフルシチョフの時代に独裁を防ぐために総書記から第一書記に変えたものを再び総書記に戻した上で、総書記と最高会議幹部会議長、首相というトロイカによる国家管理体制の中に党の総書記を入れることで、党を国家機関の一部に押さえ込もうとした。本来的には共産党がそこまで国家機関に入り込むこと自体が望ましいことではないのでスターリン没後に第一書記に変えたのだが、それを戻さざるを得なくなったのだ。その影響はさらに広がり、4月27日には、グロムイコ外相がバチカンを訪問し、建国以来初となるソ連首脳とローマ教皇の話し合いがもたれた。その頃アメリカのベトナム派兵数は25万人に達していた。

劉少奇の対応

国際問題にまで発展してしまえば、劉少奇も反応せざるを得ず、そこで5月4日からの中共中央政治局拡大会議の開催となったわけだ。《二月提綱》というのは、かなり格調高く、理想的なことが述べられているだけに、政治的な扱いは非常に難しいものであったと言える。「彻底清理学术领域内的资产阶级思想,是苏联和其他社会主义国家一直没有解决的问题。」と、ソ連批判の文言も含まれていることから、それを使えば社会主義国全般に影響を及ぼすことができ、そして「要提倡“坚持真理、随时修正错误”。」というのは、誰が真理を定めるのか、という点で神学的に大きな問題を提起する。私の感覚では、この問題をマルクス・レーニン的革命思想で解決するのは非常に難しいと思い、その意味で、本質的には反マルクス・レーニン主義的であるという批判は免れないのであろうと感じ、むしろ、間違っているのはマルクス・レーニン主義である、という結論を引き出すべきだったのだと言える。それができなかったので、政治的には、これは国家の意思決定機関ではなく、党の中央政治局の話で、その意思決定プロセスが、中央委員会主席からの指示で動いたということについての解釈を整理する必要が出てきたのだろう。それをこの《二月提綱》に乗せて議論すると、短期的に結局誰が政治的に圧倒しようとしたか、といえば、劉少奇経由で通しながら、そこから革命的に毛沢東に経路を移して筋をひっくり返した組長彭真、副組長陸定一ということにならざるを得なくなる。ただし、それをひっくり返したのは、あくまでも毛沢東であり、それは、毛が国家という組織においては上になる劉少奇を狙い撃ちにしたものであるということを明らかにしている。

五一六通知

そこで、拡大会議で議論される《五一六通知》につながってゆく。拡大会議では、彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆に批判が集まり、彭真は、《二月提綱》の策定を主導し、『海瑞罷免』の批判に抵抗したこと、 羅瑞卿は、林彪が広めた個人崇拝と「突出政治」運動に抵抗したこと、陸定一は、妻の厳慰冰が、林彪やその妻葉群に対する匿名の手紙を書き(ここはかなりドロドロがありそうで、実はこのドロドロが文化大革命の一つの大きな要素になっているようだ。)、林彪の学んだことを現実に適用する「活学活用」運動に反対し、彭真とともに『海瑞罷免』批判に抵抗したこと、そして楊尚昆は、中共中央弁公庁での盗聴事件に関与したために、それぞれ批判された。

この中でいくつか捕捉すると、まず、「突出政治」とは、林彪が軍に出した5つの行動の指針を中心に毛沢東思想を軍の活動のベースにするという考え方である。林彪は朝鮮戦争の時の話から彭徳懐よりも上の立場だったようにもみられがちだが、実際には文化大革命を通して彭徳懐を徹底的に貶めることで、その名声を横取りしたのが林彪であると言える。そのきっかけとなったのが、おそらく戦時中に、これは想像だが、葉剣英の娘で、おそらく 陸定一の許嫁であったのではないかと思われる葉群に手を出し、林立果を産ませて略奪婚のようなことをしたのではないかと思われる。それがのちに上に出た厳慰冰の匿名の手紙ということにつながってゆくのではないかと思われる。
で、その葉剣英だが、楊尚昆の経歴ロンダリングの中でその名を使われている。そして、この盗聴事件は、実は毛沢東がらみだったのかもしれない。

この楊尚昆が、毛沢東、あるいは林彪の実働部隊として暗躍していた可能性が高い。なお、この楊尚昆はのちに許されて儀礼的役割のみとなった国家主席に就任するが、そのときに鄧小平の名を出しながら実権もないはずなのに戒厳令を出した人物である。
彭徳懐と林彪の話に戻ると、廬山会議で彭徳懐が失脚した後、64年に葉剣英と羅瑞卿が 全軍による大比武活動と郭興福の教え方を普及させることを提言した。その具体的な軍事経験に基づく訓練に対し、林彪は毛沢東思想に基づいた精神論を展開し、そこで「突出政治」が出てくることになる。つまり、林彪が軍の中に入り込み、毛沢東に阿ることで、その指揮権を手に入れようとした、そして毛がそれを利用しようとした、というのが文化大革命の発生原因であるといえそう。

通知採択後の動き

5月16日に毛沢東が何度も修正した《五一六通知》を採択し、それによって中央委員会が承認した《二月提綱》を撤回し、当初の「文化革命五人組」とその事務所を廃止し、政治局常務委員会のもとに文革組を再設置することを決定した。18日には林彪が会議で「毛主席の言葉はすべて真理であり、一語は私たち一万語以上のものである」と述べた。真理を定めるのが毛沢東であると認め、政治局常務委員会の毛沢東に対する全面降伏となった。23日に四人は中央書記處での職務を停止され、彭真は北京市委第一書記と市長の職務を、陸定一は中央宣傳部長の職務を、楊尚昆は中央書記処の副書記の職を解かれ、26日に会議は終了した。《五一六通知》は、発表後1年間、中国共産党の第二級機密文書として、17等級以上の幹部しかアクセスできないようになっていた。67年5月17日、「両報一刊」と呼ばれる「人民日報」、「解放軍報」、「紅旗」に全文が掲載され、以降、「偉大な歴史的文書」として公文書となった。

さて、《五一六通知》によって「文化革命五人組」が事実上解散した替わりに、新たに陳伯達・康生・江青・張春橋からなる新しい文化革命小組が作られた。そして、《五一六通知》の中で、中央や地方で党、政府、軍隊、文化圏のあらゆる分野において資本階級を代表する人物が入り込んでいるとして、プロレタリアートの独裁からブルジョアジーの独裁へと変えようとするので、ブルジョアの代表者を批判し、彼らを粛清し、場合によってはそのポストから異動させなければならない、などとした。それを受けて同月、北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶元梓以下10人を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の壁新聞(大字報)が掲示され、次第に文化大革命が動き出した。

文化大革命の蟲動

翌月の6月1日に『人民日報』は「横掃一切牛鬼蛇神」(一切の牛鬼蛇神を撲滅せよ)という社説を発表した。この社説の中で「人民を毒する旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を徹底的に除かねばならない」(これを「破四旧」と呼ぶ)と主張した。この社説を反映して、各地に「牛棚」(牛小屋)と呼ばれる私刑施設が作られた。
8月の8月1日から12日まで北京で第8期11中全会が開かれ、文化大革命(文革)が全国規模で始まる合図となったが、これに中央委員会の全体会議であるのにも関わらず、中央委員ではない江青らも出席するなど文革色が色濃く出るものとなった。ここで、「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)が発表され、文化大革命の定義が正式に明らかにされた。そして、ここで彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆の四人に関する政治局拡大会議の決定が承認された。
中央政治局常務委員が従来の7人から11人に増員され、毛沢東、林彪、周恩来、陶鋳、陳伯達、鄧小平、康生、劉少奇、朱徳、李富春、陳雲が中央政治局常務委員に選出された。また、徐向前、聶栄臻、葉剣英が中央政治局委員、李雪峰、謝富治、宋任窮が政治局候補委員に選出された。この人事で林彪が中央政治局常務委員会における序列第2位に、それまで序列第2位だった劉少奇が第8位となった。これにより、林彪が毛沢東の後継者となり、それまで後継者と目されていた劉少奇が失脚したことが明確になった。また、複数いた党副主席を林彪のみとし、それまで党副主席であった劉少奇、朱徳、陳雲は解任された。

一気呵成に

そして1966年8月5日、毛沢東は「司令部を砲撃せよ――私の大字報――」と題した評論を、流行し始めていた大字報(壁新聞)に擬えて『人民日報』に掲載させ、「修正主義の司令部がブルジョア専制をやり、文化大革命運動を弾圧した」と、劉少奇や鄧小平を批判した。8日に発表された『プロレタリア文化大革命に関する決定』では、運動の目的を「資本主義の道を歩む実権派を闘争によってたたきつぶし、ブルジョア階級の反動的学術“権威者”を批判する」と方向付けた。
会議終了6日後の18日には、この会議の成果を祝する形で天安門広場に集まった百万人ともいわれる紅衛兵を毛沢東ら共産党首脳が接見し、文革の全面的な展開を内外に強く印象づけることになった。それから11月26日にかけて全国から上京してきた紅衛兵延べ1,000万人と北京の天安門広場で会見することで、紅衛兵運動は全国に拡大するようになった。紅衛兵による官僚や党幹部への攻撃は、毛沢東が戦時中に延安での演説で使ったと言われる「造反有理(上への造反には、道理がある)」のスローガンで、正当化された。個人的には、これは疑わしいのではないかと感じ、戦争中で国共合作で日本と戦っているときに、造反有理の演説というのは、いったい誰に向けてやっているのかがわからない。外敵である日本相手に造反という言葉を使うのか、あるいは国民党に対して言っているのか。いずれにしても、清華大学に掲げられたポスターに書かれたこの言葉が一人歩きし、結局最終的には毛沢東自身に「造反」されることで紅衛兵の運動は終わることとなる。毛沢東の全方位に向けての煽りと裏切りの繰り返しというのは見事だと言わざるを得ない。よくぞ人生を全うできたものだと感心する。

劉少奇の没落と紅衛兵の末路

この会議でかろうじて政治局常務委員と国家主席の地位に留まった劉少奇は、1968年10月の第8期12中全会で「叛徒、内奸、工賊」のレッテルを貼られて党から永久に除名、党内外の全ての職務を解任された。この決定は1980年の第11期5中全会でようやく取り消され、名誉回復がなされた。

劉少奇を追い出したことで目的は達成され、1968年12月22日には『人民日報』が「若者たちは貧しい農民から再教育を受ける必要がある」として、都市に住む中学生・高校生などは農村に行って働かなければならないという毛の指示を報じた。

この上山下郷運動による下放は、その後、1968年からおよそ10年間に渡り行われた。都市と農村の格差撤廃という共産主義のスローガンの影響と、都市部の就職難を改善させる目的から、半強制的な性格かつ永住を強制する措置として行われ、10年間に1600万人を超える青年が下放させられた。その行き先は雲南省、貴州省、湖南省、内モンゴル自治区、黒竜江省など、中国の中でも辺境に位置し、経済格差が都市部と開いた地方であった。ただし、一部の党幹部の子女の中には、軍に入ったり、都市郊外の農村に移住したりするなど比較的恵まれた時期を過ごせた者もあった。

ということで、使い捨てもいいところなのだが、それでも、本当かどうか知らないが、「多くの青少年は「毛主席に奉仕するため」として熱狂的に下放に応じた。」というから、熱狂とは恐ろしいものだと思う。

林彪

林彪という人物は、

「延安(抗日戦争時代)精神」の復活を図るとともに、軍の政治教育を重視して毛沢東思想への恭順を推進した。林彪はこの一環として、1959年に解放軍向けとして『毛主席語録』の編集・刊行を命じた。こうした人民解放軍の路線転換は、文化大革命において軍が重要な役割を果たす契機となった。1964年に刊行された『毛主席語録』の増訂版には、林彪の序文が追加された。
1965年5月には導入から10年で軍の階級制度を廃止した。ベトナム戦争へのアメリカの介入によって緊張が高まったこの頃、総参謀長の羅瑞卿がアメリカとの戦争に勝つためには、ソ連との関係を改善させた上で最新鋭の兵器を集めて防空を中心とした迎撃とする意見を表明すると、林彪は「人民戦争」こそが勝つ手段でありソ連は「裏切り者」として対決すべきと批判した。1965年の秋から翌年初にかけ、軍では毛沢東の著作や指示を行動指針とする方針が徹底された。

という、毛のカリスマ頼りであたり構わず手当たり次第に噛み付く「人民戦争」オタク、というか、革命オタクというか、まあ、お祭り大好きタイプな人間というか、そんなところではないかと見受けられ、そこで毛との食い違いが発生する。

1969年3月にソ連との間に珍宝島が発生し、それは核戦争に至りかねない深刻なものだった。林彪は、人民解放軍を「人民戦争」に最適化して組み立ててきたので、毛沢東というカリスマなしには動かないようになっていた。その後4月1日から24日まで中国共産党第九次全国代表大会が北京で開かれた。そこで林彪は、

党内の資本主義の道を歩む実権派は中央でブルジョワ司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とを持ち、各省市自治区および中央の各部門に代理人を抱えている。(中略)実権派の奪い取っている権力を奪い返すには文化大革命を実行して公然と、全面的に、下から上へ、広範な大衆を立ち上がらせ上述の暗黒面を暴き出すよりほかない。これは実質的にはひとつの階級がもうひとつの階級を覆す政治大革命であり、今後とも何度も行われねばならない。

と文化大革命を総括した。これは、継続的な文化大革命を述べたものであり、こんなことを言えば、だれも国家主席などには怖くてなれない。そこで、劉少奇の罷免後、国家主席の地位は空席となり、2人の国家副主席(宋慶齢と董必武)が名目上の国家主席の職務を代行したものの、国家副主席の身分が国家主席に取って代わることはなかった。一方で、毛沢東も自分の命がかかるとなると敏感で、在黨章修改草案中規定:「林彪同志是毛澤東同志的親密戰友和接班人。」ということで、憲法草案の中で毛沢東は林彪を後継であると指定した。これに対して林彪は毛に国家主席になるよう繰り返し迫るわけで、要するに二人で国家主席の座、つまり人身御供の座を押し付けあっていたのだと言える。

核危機

この真っ最中4月15日に、アメリカ海軍の電子偵察機が北朝鮮に撃墜されたアメリカ海軍EC-121機撃墜事件が発生し、乗員31名全員が死亡した。報復のために戦術核兵器による北朝鮮への攻撃準備をニクソン大統領は軍に命じるも、当時ニクソン大統領は酩酊状態のため、キッシンジャー大統領補佐官が「大統領が酔いに醒めるまで待ってほしい」と進言して撤回された、ということで、あちらこちらで核戦争のリスクが高まっていた。そんな中9月23日に、中国が第1回地下核実験を行い、軍の統制が取れているのかどうか不安が高まっていた。一方で、ニクソンが大統領に就任したアメリカでは、ベトナム和平への動きが始まっていた。

逃げる毛、追う林彪、そしてその結末

1970年に毛沢東は新憲法の制定を企図したが、そこで国家主席職を廃止することを指示した。一方で林彪とその一派は中共中央九期二中全会などで、毛沢東の国家主席就任や「毛沢東天才論」を主張して毛沢東を国家主席に復帰させることを主張し、これは政治局で大方の支持を得た。康生にいたっては「もし毛沢東が国家主席に就くことを望まないのであれば、林彪に国家主席をお願いしたい」と述べた。しかし、毛沢東が「かつて孫権から帝位を勧められた曹操は、孫権が自分を火炙りにしようとしていると看破した。私を曹操にしてはいけないし、君たちも孫権になってはならない。」といって釘を差したため、政治局での国家主席設置論は勢いを失った。

林彪らの動きを警戒した毛沢東が、林彪とその側近に対し粛清に乗り出したことから、1971年3月27日には、林彪の息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となり、地方視察中の毛沢東を爆殺し、同時にその後の権力掌握のためのクーデターを実行し、広州で新政権を樹立することなどを画策した計画書「五七一工程紀要」(「五七一/Wǔqīyī」=「武装起義/Wǔzhuāng Qǐyī」、いわゆる「クーデター」)を作成することになる。この中で、「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である」、「中国を人民の相互軋轢によるファシズム独裁国家に変えてしまった」としている。

この後は、まさにニクソンショックと重なってくるが、71年7月15日にニクソン訪中が発表され、その後の

1971年8月から9月にかけて南方を視察中の毛沢東が、視察先で林彪らを「極右」として猛烈に批判したことを機に、身辺の危機を感じた林彪とその側近らは、9月5日に毛沢東の乗った専用列車を爆破する暗殺計画の実行を決意し、8日に実行に移した。これに併せ林彪と林立果、妻の葉群や側近らは毛沢東暗殺計画成功後のクーデターの準備のために河北省北戴河に移った。なお、毛沢東暗殺計画成功の暁には北戴河から北京に戻り、副主席の林彪が毛沢東党主席の後継者となるつもりであった。また、計画失敗の際は広州で林彪を首班とする新政権を樹立、もしくは当時中華人民共和国と対立関係にあったソビエト連邦へ亡命する計画であった。
しかし事前に暗殺計画の情報が毛沢東らに漏れたために、毛沢東らは専用列車を当初の杭州から直接北上させ上海で下車するルートから、紹興へ迂回させた上で、上海で下車せず12日に北京へと戻るルートを取ったために爆破に至らず、最終的に暗殺計画は失敗した。
9月13日、中国人民解放軍のイギリス製ホーカー・シドレー トライデント旅客機でソビエトへ逃亡中、モンゴルのヘンティー県イデルメグ村付近で墜落し林彪を含む搭乗者が全員死亡した。

10月25日にアルバニア決議が国連で採択され、中華人民共和国が国連加盟となる。

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