不完全情報がもたらす不平等競争

ゲーム理論を見てもわかるように、不完全情報から駆け引き状態が発生する。ゲーム理論の典型例である囚人のジレンマでは、情報の不完全性から自分の有利な情報が出た時点で取引をする、ということになり、不完全情報の程度によってその駆け引きの結果が定まるのだと言える。これが社会に拡大されると、より完全に近い情報を持っている方が有利になってゆき、そしてそれによってさらに情報が集まり、ますます有利になるという不平等競争の仕組みがビルトインされていると言える。

完全情報の意味

そもそも、情報に完全などというものはなく、不完全の程度の問題であるし、そして関心の方向が違えば完全という言葉の意味すらも共有されないことになる。そして、ゲームにおいて完全情報とは、金や権力を持つ側の意志ということだと言えそう。司法取引の例ならば、それを持ちかけた検察側の意図をどこまで理解しているか、ということが完全情報の意味するところで、それをより深く理解すれば取引によって有利な立場を得ることができるようになるのだと言える。つまり、完全情報とは意志決定力を持っている側の望む情報ということを意味し、それは対等な意味での完全ではあり得ない。

完全情報に向けての競争

完全情報がそういう意味を持つ中で、その完全情報に向けて競争がなされるというのは、資本主義においては金のありかをどれだけ的確に把握しているかということを意味することになる。それは、個別具体的な顧客ということから、金の流れであるバリューチェーンということまで、さまざまなレベルでの金のありかということになり、そしてバリューチェーンの情報に近づくほどそれは社会構造についての情報ということになり、それをよく知っていることが競争に有利に作用する、ということになる。これは、皮肉なことに、競争が激しくなればなるほど、資本の意志決定力が強まり、バリューチェーンが硬直化し、社会が固定的になり、そして階層化が激しくなるということを意味する。つまり、競争は決して社会を活性化させるものではなく、むしろ社会を硬直化させる方向に向かわせるということだと言えそうだ。

文脈の競合

そのような社会では、バリューチェーン同士の文脈の競合というのが競争の基調を成すことになる。特に、機能が均一化するほどに、マーケットシェアの争いは文脈依存度が高まる。そうなると、大規模組織の文脈圧迫度が高まり、ニッチやベンチャーは生まれにくくなる。というのは、資本主義世界では、信用というものが大きく作用するために、新機能開発の文脈は信用力の大きな壁にぶち当たることになるからだ。

情報化社会における完全情報

それは、情報化社会になればなるほど大きく作用するようになる。というのは、情報化社会によって競争も情報戦の占める比率が高くなると、情報の信用度というのが大きく問われるようになるからだ。情報戦においては、生やさしいものでも比較広告的に、ライバル商品との差別化が強く図られる。それ自体は機能の多様化をもたらして商品の個性を際立たせることになると評価できるが、定量的に比較できないものに関しては、主観的な定性比較とならざるを得ず、それは文脈の優劣を競うことになる。そうなると、その比較は信用力に直結し、規模やブランド力の高い方が選好されることになる。

敵対的情報による不完全情報の広がり

そんな中で情報戦が激しくなると、表面上はともかく、水面下で敵対的情報が流布するということが起きるかもしれない。そんな情報は、不完全情報を補強し、それによって認識の分断が生まれることとなる。そして、認識の分断は、敵対的認識による恒常的な認識争奪戦を引き起こし、人の認識範囲を非常に狭くしてゆく。特に基準となる情報に誤り、または悪意があれば嘘が混じり込んでいると、正しいことを言うことが敵対的情報となると言うことも起きうる。前提部分に嘘が混じっていないか、と言うのは、数学的・合理的に動く社会においては非常に重要なものとなる。嘘というのは、それ自体が不完全情報であり、最初から完全情報による管理の枠外にいるのだといえる。その下で計算がうまく働くとは考えられず、そうすると、権力によってその様な嘘を塗り固め、それによって自らに敵意が向かない様しながら、仮に何かが起きても自分だけは逃れられると言う誘惑が強まり、結果として権力的支配が強くなるのだと言えそう。

競争の不平等化の帰結

このように、不完全情報には競争を不平等化し、権力を強化するような要素が多く含まれる。不平等な競争は社会をどんどん階層化させ、認識自体の歪みを酷くしてゆく。そしてついにはその歪んだ認識を事実であるかの様に権力が利用し、それによって支配を強めると言う様なことがなされるのだと言えそうだ。

不完全情報を避けるために

このような不完全情報の状態を避けるためには、それぞれがなるべく自分の認識をオープンにし、それが相互に信頼できるような状況となれば、認識争奪戦は起きず、それは解釈の違いについての議論となってゆく。それによって、それぞれの人の認識範囲は大きく広がり、認識に違い、多様な解釈がありうるようになる。そのような部分は認識入会地のようになり、そこについて解釈の違いを具体的議論で深めてゆく、という作業が必要となるだろう。それによって、完全情報のために他者と競うと言う無駄なことをする必要がなくなるのではないか。


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