【ニクソン・ショックを探る】第二次国共内戦の実相
国共内戦の概略
ここで、国共内戦の様子を追ってみたい。まずWikipediaに依拠してその概略を追ってみる。国共内戦では「全面侵攻」を進める蔣介石に対して毛沢東はゲリラ戦を展開した。1947年3月28日、毛は党中央の所在地である延安の放棄を決定、国民党軍を山岳地帯に誘い込み、国民党の戦力消耗を図った。内戦当初優勢だった国民党軍はこの頃より勢いに陰りを見せ始めた。毛沢東率いる中国人民解放軍(1947年9月、八路軍から改称)はソビエト連邦からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗によって軍事支援を削減された国民党軍に対して大規模な反撃に出た。1948年9月から1949年1月にかけて展開された「三大戦役」において人民解放軍は勝利を重ね、国民党軍に大打撃を与えた。1949年1月、人民解放軍は北平(北京)に入城し、4月23日には国民政府の根拠地・首都南京を制圧した、とされる。この辺り、話の展開がドラマチックすぎ、そしてここには出ていないが「三大戦役」などで出てくる数字も誇張が目立ち、実態はなかなか掴みづらいが、のちに走資派として党を追われる鄧小平の活躍が出ることなどから、周恩来を中心とした穏健派が内戦を避けるために中間派の共産党への取り込みというか、中華人民共和国という新しい仕組の中に共に参加するよう説得したのではないかと感じる。
政治協商会議
では、その時期に実際は一体何があったのかということを細かくみてみたい。まず、1946年1月10日に蔣介石と毛沢東の間で結ばれた双十協定に基づいて政治協商会議が重慶で開催され、そこで和平建国綱領を採択するもその後の国共内戦で話し合いは停滞していた。46年に国民党がアメリカに切られた様子はすでにみた。その後、上記の通り、47年に共産党の本拠地延安を国民党が落とし、共産党は山岳地へ逃れた。
華北人民政府
これで内戦に区切りがついたと考えられたか、48年になって華北において華北人民政府を作る動きが出てきた。6月26日に、石家荘で晋冀魯豫辺区、晋察冀辺区の両地域の連合会議が開催され、まとまって華北人民政府を作る決議をするために華北臨時人民代表大会を召集することが採択された。それを受けて、8月7日から19日まで、石家荘の解放公会堂で華北臨時人民代表大会が秘密裏に開催され、董必武等27人が華北人民政府委員会を組織するよう選ばれ、そのうち2/3は労働者、農民、革命知識人、革命軍の代表、1/3は民主党と無党派層の代表であり、解放都市で選出される議員のために12議席を残した。9月20日に平山県王子村で華北人民政府委員会(22名)の第1回会議が召集され、役員の任命が行われ、26日、正式に「華北人民政府」が発足、翌27日「華北人民政府の樹立を宣言し、即日晋冀魯豫辺区、晋察冀辺区の行政委員会を廃止する」という布告が出された。11月1日、華北人民政府委員会の第2回会合が陽泉で開かれた。 12月1日、第3回華北人民政府委員会が開催され、中国人民銀行が設立され、東北と中原の2つの解放区を除く他の地域の金融業務を監督することになった。これによって経済圏が一つに統合されることとなり、国家の統一の目処がついたのだと言える。12月15日、東迎村で第4回華北人民政府委員会が開催された。明けて1949年1月、蔣介石が「三大戦役」での敗戦の責任をとって総統を辞任すると、副総統だった李宗仁が総統(代理)に就任したとされる。この辺りがちょうど「三大戦役」と重なっており、実際は戦争ではなく、華北に話し合いのための華北人民政府委員会が作られ、その下に中国人民銀行ができた、というのがこの時期あったことで、蒋介石が辞めることを条件に国民党がそれに参加することになっていたのではないかと考えられる。
遼瀋戦役
では、「三大戦役」についてもみてみたい。これは、遼寧瀋陽戦役、淮海戦役と平津戦役のことを指している。まず、遼寧瀋陽戦役、略して遼瀋戦役は、1948年9月から11月まで52日間続いたこの戦役では人民解放軍が瀋陽、長春、錦州で中華民国陸軍を撃破、満州全域を占領したとされる。これには国民党側で二人の人物が登場する。范漢傑と衛立煌だ。Wikipediaによると、1948年(民国37年)1月、衛立煌が東北剿匪総司令に任命された際に、范は冀熱遼辺区司令長官としてその下に付く。2月には熱河省政府主席も兼ねた(実際の事務は于国楨が代理)。しかし衛と范は連携が上手くいかず、范が一時辞職を申し出たほどだったが、蔣介石はこれを認めなかった。同年9月、東北剿匪総司令部副総司令兼錦州指揮所主任として錦州の堅守を図るも、翌月の遼瀋戦役で東北人民解放軍の前に錦州は陥落、范は捕虜とされてしまった、という。衛立煌は共産党寄りの人物で、おそらく東北部の国民政府の代表だった范漢傑を追放、或いは逆に追放されて毛沢東の元に身を寄せ、それでこの遼瀋戦役の話をつくっていった可能性がある。実際、衛立煌が60年に没してからすぐ范漢傑は特赦を受け、中国人民政治協商会議に復帰している。この辺りの人物評価の変遷は、そのまま毛沢東と周恩来との間のパワーバランスを示しているとみて良いのだろう。
冀州について
また、冀熱遼辺区というのは、晋冀魯豫辺区、晋察冀辺区と冀州の冀の字が共通しており、一つの州が二つ、或いは三つの辺区によって共有されると言うことがあったのか、と言うことも疑わしい。実は、冀熱遼辺区が華北人民政府の中心であったのかもしれない。そして、それは中華人民共和国の首都として定められる北平(現在の北京)がどこに属するのか、と言うことにつながる非常に重要な問題であった。清と言う国はもともと満州の一部にあたる遼寧省の瀋陽を首都としていたが、それを北京に遷都することによって中原の支配を開始した。そして、北京は北平の名を変えたものだとされるが、実はもともと北平は河北省のもっと海より、山海関あたりにあったと考えられ、歴史的には満州に属すると言って良い場所である。つまり、そこから先に漢民族が入れるか否か、と言う重要な場所であり、そのためにその地名が色々変えられ、おそらく盧溝橋事件もそのややこしさが関係しているのではないかと考えられる。現在では河北省になっていそうだが、いずれにしても遼寧省との境付近にあるその場所は歴史的には隋以降は冀州に属しているが、それ以前は幽州と言う独立した場所であり、隋の時代に冀州の範囲が大きく広がり幽州も冀州に含まれるようになったことから、冀州の範囲が問題となっていたと考えられる。いずれにしても、清の故地であるそこを共産党が易々と落とすと言うことは考えづらく、一方でそこを落としたと言うのは革命による建国神話としては欠かせない話であり、だから、おそらくそこで共産党が勝ったと言う話は作られたものではないかと考えられる。
淮海戦役・平津戦役
二つ目の淮海戦役だが、1948年11月6日から49年1月10日にかけて発生した中華民国国軍と中国共産党の中国人民解放軍による戦闘である。その場所は徐州だとされるが、どうも出てくる人物が、これは 遼瀋戦役にも言えるのだが、雲南方面と関わりの深い者が多いと言うことで、この辺りの戦いは、実際には雲南方面で行われていたのではないかと考えられる。そのためか、この戦いの表現は雑すぎてほとんど検討に値する要素がない。鄧小平の名が出てくると言うことで、鄧小平が実権を握ってから、もっと言えばその死後に、それに阿るために作られた話ではないだろうか。
最後の平津戦役は、 時期的にはほぼ淮海戦役と重なっており、1948年11月29日から49年1月31日にかけて戦われたもので、平津とは北平と天津を指している。これはおそらく聶栄臻による北平(北京)解放のことではないかと思われるが、詳細はわからない。聶栄臻はのちの文化大革命中に林彪と争っているので、おそらく林彪が聶栄臻の功績を文化大革命中に横取りしたのであろう。「三大戦役」の中では淮海戦役が最大のもので後の二つは大したことがなかった、と言う意見も出ていたが、実際のところ、淮海戦役というのはむしろこの平津戦役の重要性を覆い隠すものであると考えられ、実際には聶栄臻は共産党とされているが、むしろ国民政府側で、その国民政府が北平を解放したと言う重要な戦いだったのではないかと考えられる。
このように、「三大戦役」の記録は、特に文化大革命中に大きく変えられているようで、その実態は少なくともWikipediaに出てくるような一般的な文章からでは、明らかにおかしい、と言うこと以外はほとんどわからない。こうして歴史はつくられるのだ、と言う好例として理解するのと同時に、なるべく元の姿を復元する努力も求められるだろう。
入れ替わる国民党と共産党
さて、蒋介石の代わりに総統となったとされる李宗仁は、蔣介石とは敵対的で、さらには後に台湾をアメリカ合衆国51番目の州にすることを提案するなど、とてもまっとうな神経を持った人物とは思えない。さらに3月8日には孫文の息子である孫科の内閣が倒れたとの記録があるので、実際には蒋介石の後には孫科が国民党を主導している中、李をはじめとした国民党内の共産党シンパが毛沢東に内通して独走していたのではないかと考えられる。その毛沢東は1949年3月の第7期2中全会において、新政治協商会議の開催と民主連合政府の樹立を各界によびかけたとされる。それはもうすでに、華北人民政府によって動き出していることであり、今更毛沢東がのこのこ出てきて何をいうか、という感じであるが、それを受けた形になるのか、李宗仁が4月1日に共産党との和平交渉団を南京から北平(北京)に派遣して北平和談を行い、交渉団が最終案である国内和平協定を持ち帰ってきた。その内容自体は見つけられなかったが、15日にははるかに厳しい和平案が周恩来から国民党政府に突きつけられた。このあたり、国民党と共産党がそれぞれ何を指しているのかが混乱していて非常にわかりにくいのだが、とにかくこれは内戦の責任が全て国民党側にあると言うことが最初の前提となっており、とてもではないが国民党側が受け入れられるような内容ではなかった。周は、蒋介石も孫科もいなくなった国民党と交渉してみたものの、残っていたのは毛沢東系のコミンテルンに通じるような共産党と繋がった人々ばかりで、そこに最後通牒を突き付けたということではないだろうか。つまり、2年前にマーシャルが国民党に対して国際的に完全に悪いイメージをつけてしまったので、コミンテルン系を南京国民党政府に押し付けて、それを国民党という名とともに処理してしまう、という戦略でのこの最後通牒で、その代表だったのが、毛と通じていたと考えられる李宗仁だったのではないか。
アメジスト号事件と南京陥落
それに対して、同年4月20日に中国人民解放軍がイギリス海軍スループ艦アメジスト号を砲撃するというアメジスト号事件が発生したとされ、それと同時に国民党は署名を拒否する電報を共産党に打って交渉は決裂したという。この事件の本当の犯人は、実は国民党とされている勢力だったのではないか、という印象を受ける。この時南京に向かっていたのは周恩来であり、それが人民解放軍を指揮していたとは考えにくいので、むしろ国民党主流派が、共産党の軍である人民解放軍ではない、周恩来率いる華北人民政府軍と合流し、残った毛沢東シンパの強硬派に降伏を迫ったということではないかと考えられる。だから、アメジスト号を砲撃したのも、人民解放軍というよりも単に毛沢東シンパを指すのであろうと考えられ、つまり一般に国民党とされる南京政府の方だったのではないかと考えられるのだ。それによってイギリスが介入してくれば、また混乱が起きて毛沢東側が有利になるという思惑だったのではないか。同年4月23日には渡江戦役で人民解放軍によって首都・南京を占領されたのを皮切りに、漢口(同年5月16日)、西安(5月20日)、上海(5月27日)、青島(6月12日)を人民解放軍がなし崩し的に占領していったという。これも人民解放軍というよりも、華北人民政府軍だったと考えるべきだろう。5月21日アメジスト号事件に関する交渉が始まった。ちょうどこの頃、2月20日、北平に開設された華北中国人民政府の事務所が、国民党征伐に目処の立った5月初旬に移転が完了していた。こうして、49年の夏前には中国の情勢は、華北人民政府を中心としてほぼ落ち着いてきていた。
中国人民政治協商会議
6月25日(中華民国38年目)、政治協商会議準備委員会が設立され、毛沢東は新政協で「この共和国を代表する民主的な連合政府を選出する」ことを求めたとされる。それを華北人民政府が1年かけてやってきたのに、散々混乱させて、さらにちゃぶ台返しをしようという毛沢東の厚かましさと、いわゆる中国共産党の公式記録の偏り方があらわれている。
兎にも角にも、こうして、ようやく9月21日から9月30日にかけて北平(北京)に全国の著名な有識者や諸党派の代表が集まり、政治協商会議が開かれることになったが、第1回全体会議開催時に、1946年(中華民国35年)の政治協商会議と区別するために「中国人民政治協商会議」と改称することが決定された。この会議では新国家の臨時憲法となる「中国人民政治協商会議共同綱領」が採択され、新国家の国号を「中華人民共和国」とし、北平を北京に再び改称し、国民政府の象徴である南京から遷都することが決議された。そのほか、西暦を採用し、『義勇軍進行曲』を仮の国歌とし、そして五星紅旗を国旗とすることが決定された。
毛沢東の横槍
ここでなぜか華北人民政府とは全く関係のない毛沢東が翌10月1日に突然中華人民共和国の成立を宣言し、それによって共産党による人民政府の乗っ取りが始まる。よその国のことなので、細かくチェックしていちゃもんをつける気もないのだが、新政治協商会議中に毛沢東が中央人民政府主席に選ばれたとされるが、これはどうも、新政治協商会議が終わった後に、それにピッタリ被せるように翌10月1日に毛沢東の一党による「中央人民委員会」が開かれ、それによって自分たちだけで勝手に主席や副主席などを決め、そしてそのまま自分たちのものかの如く毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言したように見受けられる。周恩来と毛沢東が同じ会議に出ているという記録はほとんど見当たらず、どうも朝鮮戦争での義勇軍派遣についての会議で、中華人民共和国建国後初めて同席しているのではないかという感じを受ける。つまり、政務院は軍事権を持っていなかったので、出兵に関しては毛沢東の存在が必要だったから同席した、或いはそういうことであったとするために、この会議ですら同席を偽装しているのかもしれない。というのは、本当に毛沢東が了承したのならば、義勇軍という形を取らずに人民解放軍で参戦しているはずが、そうしていないということは、毛沢東は関係なく、軍事権のない国務院が義勇軍を集めて参戦した、ということではないか、と思われるからだ。この辺りももっとしっかり資料を確認したほうが良いのだろうが、今はそこまで手が回らないので、ここまでにしておく。
それは1年も先のことになるので、時間を元に戻して49年、ようやく統一が見えてきたところで、毛沢東の介入が始まった。10月27日、中央人民政府主席の毛沢東が「華北人民政府廃止令」を発布し、10月31日、華北人民政府を中央人民政府の評議会に引き渡す会議が開かれた。これもおそらく毛沢東系の共産党だけが勝手にやったことであり、新政治協商会議は預かり知らぬことであったのではないだろうか。こうして、周恩来の目の届かないところで毛沢東が着々と乗っ取りを仕掛けていたのだ。
蒋介石の台湾入り
さて、中華人民共和国は建国されたが、この段階では国共内戦は終息しておらず、いわゆる国民党はまだ華南三省と西南部三省の広範囲を支配していた。11月30日に重慶を陥落させて蔣介石率いる国民党政府を台湾島に追いやったものの、1950年6月まで小規模な戦いが継続した。重慶陥落から台湾に落ちるという地理的な飛躍が、あまりにリアリティに欠ける。そして、その時点で毛沢東が中華人民共和国を把握していたか、というのは非常に疑問で、むしろ非常に小さな存在感しか無かったのではないかと疑われ、だから国民党が1ヶ月で蹴散らされて台湾に落ちるというのがどうにも可能なようには思えない。だから、これは国民党内の共産党系のことを指しているのであって、すでに総裁を退いていた蒋介石が本当に国民党を率いていたか、というのは疑問が残り、台湾に逃れた共産党系の国民党残党があまり無茶をしないようにお目付としてついていったのが蒋介石だったのではないだろうか。時期、経路を含め、この辺りも更なる研究が必要とされる。
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