文脈最適化原理

効用極大化の限界

現在の経済学が基づいている近代経済学においては、効用の極大化ということが人の基本的な行動原理として定義され、それに基づいて功利主義的に自らの効用極大化行動を正当化し、そしてそれを定量化することによって、貨幣価値で図ることのできる効用によって計量的な経済学を構築することが可能になっている。しかしながら、効用というのはあまりに一般的な意味であり、そしてその効用実現のために貨幣による取引が主たる部分を占めるようになると、効用の極大化はすなわち貨幣獲得極大化、結局は利益極大化につながり、経済学による利益極大化原則の正当化がなされることになる。

複数目的ベクトルの放射とマッチングによる市場形成

実際のところ、個々人は効用という一般的な何かを追い求めているわけではなく、それぞれに個別の価値に基づいた目的に向かって合理的な行動を取ろうとしているのであって、それはすなわち個別の文脈を最適化することを行動原理としていると考えた方が良いのではないだろうか。そして、その文脈に含まれる目的は、基本的な価値観に反することがなければ、複数であることも十分に可能であり、その中の一つの目的合理性で機械のように動く、といった目的合理性至上主義のようなあり方とも全く違ったものだろう。要するに、個々人は個別の価値観に基づき、様々なベクトルで様々な達成度のものを放射している、というイメージであり、そこでベクトルが接触することが、近い目的に向かって行動しているということを意味するので、相補的関係性構築のための市場が形成され、相互作用が発生して相互のベクトルがさらに伸びるようになる、と考えることができるのでは。

個別価値観の尊重

この場合、真ん中にそれぞれの価値観があり、そこから放射される文脈ベクトルで、様々なベクトルのバランスをとって価値観の安定が図られるよう行動を最適化するという風に個々人の行動がモデル化できそう。現状では社会において”共通の価値観”といったものが重視されるために、このような個別の価値観をベースにしたモデルはなかなか構築しづらいのだろう。しかしながら、社会全体が”共通の価値観”としてかなり広い部分を共有しているというのは、どちらかと言えば社会的同調圧力が高いのだと言えそうで、それ自体自由と相反するのではないかと感じる。このモデルでは、”共通の価値観”よりも、相互の価値観の尊重ということを重視しており、それによって同じをベースとした一般理論から、違うをベースとした多様理論構築へと道を切り開く。

市場理論の見直し

それは、需給が価格と数量を決定するという一般市場理論の見直しも迫るだろう。需給がアプリオリに顕在化するのか、という問題は、セイの法則で議論になったように、古典的な経済学のテーマであると言える。近代経済学では、完全情報を想定し、それによって需給情報は市場で顕在化するのだと定義して市場の均衡をモデル化することに成功したのだと言えそう。それは、極めて限定的な財の市場については適用可能なのかもしれない。典型的には食料品が不作になったら値が上がる、というのは大変わかりやすい例だと言える。これは大変皮肉なことで、最も価格安定が望まれる食料品が、最も価格の感応性が高いということになり、この時点で政府の経済政策は根本的に反市場的にならざるを得ないという、経済学の本質的矛盾が露呈することになる。実際には、世の中は財市場だけではなく、他にも様々なサービスなどを含めた市場があるわけで、単純需給で価格数量が決まるという世界は、最も典型化された金融市場を除けば、実際にはほとんど存在し得ない。

需給マッチングパターン

では、より汎用的な市場イメージはどのように構築可能なのだろうか。まず、需給については、供給が需要を生み出す、逆に需要が供給を生み出す、そして相対での対話の中で需給が定まる、というケースが考えられる。最初のものはセイの法則そのものであり、この場合は供給に対して需要が現れ、その割合で価格が決まるという古典的市場イメージにぴったり当てはまるものとなる。二番目のケースは、オーダーメイド、受注生産のようなイメージで、その場合、先に価格交渉がなされ、それが折り合えば生産が開始されるということで、原価に一番近い価格提示をする生産者が受注を受けやすいという価格競争メカニズムが機能するものとなる。最後のケースは、特にBtoBなどではほとんどこのような形になるのでは、と考えられるが、営業なり何なりで話をする中で、「今こんなものが欲しいんですよ」といったことから商談が進む、というものでこうなると、原価+付加価値のコスト積み上げ式かつ生産者の価格決定力が優先的になると言える。

大量生産と相対取引

生産者はできることならば価格決定力を保持したいので、古典的な市場よりも相対取引を好むことになる。そうすると、市場の出番は非常に限定的になり、市場の利益が出にくくなるのとともに、わざわざ相対で、となると、生産力の稼働率が落ちるかもしれない。大量生産の仕組みでは、安定的に生産を行うことで歩留まりが上がり、生産性が上がることになる。だから、生産性の確保のためには供給を先行させて市場の利益を確保しながら、できる限り受注で付加価値の高い商品を生産することを目指すことになる。こうして、大量生産を基本に据えれば、古典的な市場原理が近似的に成立することになる。

需要側での市場から相対への志向性

一方で、需要側の情報も常に限定的であり、市場に出ているからといってそれを全て把握しているわけではない。そして価格だけが決定要因なのか、と言われると、決してそんなことではない。需要についても必ず理由があるからそれを求めるのであって、それは個別の価値観からの文脈ベクトルのどこかに位置付けられることになる。そうなると、市場に出ているものに飽き足らなければ、さらなるベターマッチを求めてオーダーメイドや相対での取引を志向することになる。要するに需要側でも、市場から相対への志向性を持っていることになる。

相対取引へ向かう経路

それを考えると、市場はベンチマーク的な存在であり、その価格をベースとして生産を決め、受注を受け、さらなる商談を進める、というのが、現実的な市場であると言えそう。そして問題は、どのような需要があるか、どのような潜在生産力があるか、ということについての情報であると言える。古典的な市場の世界では、取引される財も非常に限定的であり、需給についても一定地域内のことならば一般情報でなんとかなる、という程度の大雑把な情報で成立し得たかもしれないが、現在は、財の種類にしても、その周辺のサービスにしても、とても多様化、複雑化しており、一般情報で市場が認識できるような状況にはない。そこで、古典的市場を成立させるためには、より情報流通の円滑化が求められるのだと言える。現状、金融市場における情報伝達は非常に速く、その意味で、スポット的な情報についてはかなり充実しており、それによって市場は有効に作用しているように見えるが、実際には流通している情報は金融市場へのアクセスをもったものに限られており、金融市場を介す必要のない、より実需に近い部分の情報流通というのが、非常に限定的で、それが実需を冷え込ませている大きな原因となっているようにも感じられる。

実需部分を抑圧する利益至上主義金融市場

金融市場主導の経済になっていることで、実需部分まで利益競争の巻き添いを受け、それぞれの価値実現のために最適化されているとは言えない状況になっている。それを解決するために、それぞれの主体が自らの文脈について明示し、それについての直接対話を促進することで、実需における相対取引を活性化させ、それによって、金融主導ではなく、実需主導のより古典的市場に近い市場原理がうまく働くようにし、それによって市場から利益至上主義的な考えを取り除く必要があるだろう。それは、価格や利益よりも、より自分の求める文脈に近いものを求めるという行動原理が可能になるからだ。そして金融市場に煽り立てられる競争が相補的需給調整に代わるだけで、日々の生活から大きな摩擦要因が消え、それだけで大きな生産性の改善効果が期待できる。なんといっても、個別の文脈が相互に尊重され、それぞれが自分の文脈を最適化するよう行動することが、最も生産的であると認識するのにはそれほど時間はかからないだろう。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。