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記憶の狭間を埋める旅(11)

第一次世界大戦の直接的原因(3)

それでは再びイギリス側に戻ってその時期の様子を見てみたい。
イギリスでは、当時はヴィクトリア女王からエドワード7世に変わった頃だった。

エドワード7世(英語: Edward VII、全名:アルバート・エドワード(英語: Albert Edward)、1841年11月9日 - 1910年5月6日)は、サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝の初代イギリス国王、インド皇帝(在位:1901年1月22日 - 1910年5月6日)。
母であるヴィクトリア女王の在位が長期にわたったため、チャールズ3世に次いで長くプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の立場にあった。
在位は1901年から1910年までの10年足らずであったが、その治世は「エドワード朝(Edwardian era)」と呼ばれる。在位中は1905年まで保守党(ソールズベリー侯爵とバルフォア)、その後は自由党(キャンベル=バナマンとアスキス)が政権を担当した。彼の治世下に日英同盟、英仏協商、英露協商が締結され、日本・フランス・ロシアとの関係が強化されたため、「ピースメーカー」と呼ばれた。

Wikipedia | エドワード7世(イギリス王)

その即位とドイツのビューローの宰相就任はほぼ同時期で、それによって流れが切り替わったか。

ヴィクトリア女王とロシア、プロイセン

なお、ヴィクトリア女王の時期には、

1889年4月、ヴィルヘルム2世がウィーンを訪問していた際に英国皇太子バーティもウィーンを訪問し、バーティは甥に会談を申し込んだが、ヴィルヘルム2世は自分がまず会見して敬意を表すべき相手はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフであり、まだ皇太子に過ぎないバーティではないとして拒否した。この件にヴィクトリアもバーティも「叔父にあたる者に対して無礼である」と激怒した。この騒動は8月にヴィルヘルム2世が訪英してバーティと和解することで何とか解決したが、ヴィクトリアは英独関係に不安を感じるようになり、ビスマルクに自分の肖像画を送るなどして彼を引き込もうとし、ヴィルヘルム2世を抑えさせようとしたが、ビスマルクは1890年にヴィルヘルム2世により辞職に追いやられた。 ヴィルヘルム2世はヴィクトリアやバーティが尊属として自分より上の立場から物を言うことが気にくわず、「イギリスは自分を皇帝として遇していない」と批判するようになった。それに対してヴィクトリアは「私と皇太子は、孫であり甥である彼とは親密な関係にあった。にもかかわらず『皇帝陛下』としての待遇を公私問わずに要求してくるとは狂気の沙汰である。」と怒り心頭に発して語っている。しかしこうした見解はヴィルヘルム2世だけのものではなく、多くのドイツ国民も自分たちの皇帝を子供扱いするイギリス女王に無礼なりと感じている人が多かった。
ヴィルヘルム2世は年に一度訪英したが、ヴィクトリアにとっては煩わしい行事になり、外務官僚たちにとっても外交儀礼に苦心させられる行事となった。前述したようにヴィルヘルム2世は1896年ジェームソン侵入事件の際にトランスヴァール共和国大統領クリューガーに祝電を送った。「イギリスに悪気があってしたのではない」というヴィルヘルム2世の弁明をヴィクトリアも一応受け入れたが、ヴィクトリアの内心の怒りは強く、その後様々な理由を付けてヴィルヘルム2世の訪英を拒否するようになった。ようやくヴィクトリアの勘気が解けてヴィルヘルム2世が訪英を許されるようになったのは1899年になってのことだった。
1894年4月に亡き次女アリスの娘であるアリックス(アレクサンドラ)がロシア皇太子ニコライ(愛称ニッキー)と結婚した。アリックスはヴィクトリアにとってお気に入りの孫娘であり、かつてはバーティの長男エディ王子の妃にと考えていたほどだった。ヴィクトリアは「ロシアは革命運動で政情不安定であり、いつ恐ろしいことが起こるか分からない」と考えていたため、この結婚に不安を感じていたという。
その年の11月にロシア皇帝アレクサンドル3世が崩御し、ニッキーがニコライ2世としてロシア皇帝に即位した。ニコライ2世とアリックスこと皇后アレクサンドラは1895年9月に訪英した。ヴィクトリアは夫妻をスコットランドのバルモラル城に迎えた。ニコライ2世はイギリスの植民地支配を脅かす意思は全くないことを強調しつつ、ヴィルヘルム2世がイギリスの植民地を狙っていることを批判してヴィクトリアを喜ばせた。ヴィクトリアはこの会談でニコライ2世のことがすっかり気に入り、別れる際には「英露は世界最強の二大国として手を取り合うべきです。そうすれば世界平和が保たれます」と語った。ヴィルヘルム2世が「出禁」になっているのを尻目にニコライ2世は毎年のように訪英しヴィクトリアと親交を深めた。
1899年にヴィクトリアはニコライ2世に「私たちのところへ来るたびに貴方の悪口を言うヴィルヘルムが、貴方のところで私たちを中傷しているのではないかと心配しています。その時にはどうか私に直接問い合わせてください。彼の悪意に満ちた不誠実なやり口に止めを刺さなければなりません。」という手紙を送った。

Wikipedia |  ヴィクトリア(イギリス女王)

皮肉なことに、ヴィクトリアはビスマルクにヴィルヘルム2世を押さえさせようとしていたが、失脚し、その後に親英路線を取るカプリヴィになってもヴィルヘルム2世との関係はうまくいくどころか、ロシアへの接近が強まっていたということになる。英独関係を難しくしたのは、このプロイセン皇帝のイギリス王室に対するコンプレックスの発露ということが大きな要因としてありそう。
そんな中で、ドイツが高齢となったヴィクトリア女王を尻目にイギリスの国王交代を機に一気に巻き返しを図ろうとしたのが艦隊法であったと言えるのかもしれない。
また、このニコライ2世とヴィルヘルム2世との関係を見ると、1895年の三国干渉というのはやはり考えにくいのではないだろうか。

第三次ソールズベリー侯爵内閣

一方で、ヴィクトリア女王終末期には内閣はソールズベリーが率いて帝国主義政策を推し進めていた。それはドイツでカプリヴィが辞任した少し後で、それもタイミングが悪かったと言える。

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