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新しい資本主義とエネルギー/環境問題

新しい資本主義というのは、今ひとつのトピックになっているのかもしれないが、資本主義という感覚自体がすでに古ぼけ始めているのかもしれない、と感じる。
元々、経済学は、資本主義の勃興に伴い、その在り方を規定するために研究が進み、特に新古典派あたりからは定量化が進み、資本の最適配分をどうすれば実現できるのか、ということにテーマが絞られてきたと言える。しかし、いかに経済が資本に大きく規定されているといっても、資本だけで全てが解決されるわけではないし、そして残念ながら、資本の最適配分が利益率によって測られることから、それは、利益の最適実現のためのツールとなっており、資本の使い道が最適に実現されるようには設計されていない。

排出ゼロエネルギー投資の必要

2021年(令和3年辛丑)10月14日日本経済新聞では、IEA(国際エネルギー機関)の世界エネルギー見通しについての記事を載せている。それによると、排出ゼロのためには「年450兆円必要」とされ、現状の3倍以上に当たる年間4兆ドルの投資を求めている。最適をどのように定義するのか、という問題はあるが、仮に排出ゼロを最適であると定義するのであれば、この4兆ドルが自然に配分されるようなメカニズムでなければおかしいことになるが、実際にはその投資の利益率が他のものより高い、少なくとも有意以上に低くならないことでなければ投資は行われないわけで、利益メカニズムに合わせることによって初めて「最適」配分が実現されることとなる。

利益追求と最適性実現のパラドックス

考え方にもよるが、それは非常に奇異な光景でもある。エネルギーがなければ動かない、エネルギー消費の激しい金融サービスは、利益率は高いのかもしれないが、それにそこまでエネルギーを消費する意味があるのかどうかは定義しづらい。利益が高ければエネルギー消費を問わず、その投資は最適だとして正当化されることになるのだ。そんなことをして、さらにそれと競争するような形であれば、どれだけ排出ゼロに向けて投資をしても、どんどんエネルギー消費が拡大して、いつまで経っても追いつかないことになる。それは本当に「最適」な資源配分なのだろうか。

資本主義は今必要か?

ここで、やはり資本主義、というものをもう一度考え直す必要があるのではないか。資本の利益に基づいた最適配分、というのはそもそも必要なのか。別に、人にとっても、社会にとっても、資本を得ることが最終目標ではない時に、その資本を利益率に基づいて「最適」配分することにいったい何の意味があるのか。その意味で、果たして資本主義は今必要とされているのだろうか。エネルギーということで考えれば、それを資本主義によって解決しようとして起きたのが、アメリカにおけるエンロンの問題であったと言える。それは、エネルギーの最適配分どころか、そのツールであるはずの市場までも、自由化の名の下に歪めてしまい、利益確保のために意図的に電気を止めて停電をおこし、さらには本業以外でも金融スキャンダルをおこして、エネルギーも金融もどちらの分野でも、問題解決どころか、それを複雑化させただけであった。

エネルギー最適配分のためのシステム

排出ゼロということを中心にして考えれば、現状で最適に配分されるべきなのは、ゼロエミッションによるエネルギーである。いかに個々人にエネルギーを帰属させ、それを個々人にとって最適に用いるかという考え方が必要なのであろう。理論的には色々詰めないといけないことはあるのだろうが、直観的に考えうる実践として、ある程度の地域圏を想定し、その中で自給できるエネルギーを測定し、それを一人一人に平等に分配し、余ったエネルギーを投資に回す、というようなエネルギー分配投資システムのようなものはどうだろうか。事業の実際の運営に必要なのはエネルギーであり、それをいかに有効に利用するのか、ということを最適化できる社会こそ競争力の高い社会(ちなみに為替によって相対化される経済学では、地域の競争力というのは定義し得ない)だと言えるのではないか。地域内で、排出ゼロに基づいてどれだけのエネルギーを生産できるのか、というのが、今後のカギとなる富の源泉であると考えられ、いつまでも金がいくら儲かった、などという話をしていても、そんな霞には意味がなくなる時が来るだろう。貨幣で計ったGDPよりも、域内総ゼロエミッションエネルギー生産高のようなものの方が、はるかに現実的な価値を持つようになるのではないか。

Energismの時代

エネルギーを基軸としたEnergism、上手い日本語が思いつかないが、活源主義とでも言おうか、そんな新しい言葉を考えながら、新しい社会を構想すべき時だろう。そして、翻訳を得意とする日本において、エネルギーという言葉の適切な訳語がない時点で、日本はすでにかなり出遅れているということを自覚すべきでもあろう。もっとも、多様な概念を含んだ複雑な言葉に一つの単純な訳を与えずに、そのままカタカナで表記するというのも非常に日本らしくはあるのだが。

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