ミクロとマクロの利益一致のために

ミクロレベルで自己利益極大化のために戦略的行動をとると、ゲーム理論に基づいてマクロ利益はゼロサムゲームとなり、マクロ利益の極大化は望めない。その世界観からは、ミクロの利益極大化の競争社会か、マクロの利益増大のために皆で足並みを揃える共産主義的社会かの二者択一的なものになる。いかにしてこの不毛な二項対立から脱することができるのだろうか。

合成の誤謬解決を考える諸条件

これを考えるためにはいくつかの条件がありそうだ。一つには、利益というものが稀少資源であるのか否か、ということ、また世界は閉鎖系であるか否かということ、さらには利益とはスポット的なものであるか否かということも関わってきそう。

利益は稀少資源か

一つ目の稀少資源であるか否かという問題について言えば、稀少資源であれば当然争奪戦にならざるを得ず、ゼロサムゲームとなることは避けられない。しかしながら、完全な稀少資源というものはほぼ存在しないし、仮にしたとしても、それが人口の制約条件となって、そもそもそれを常時奪い合うような状況には、自然状態ではならないと考えられる。そして、人間の叡智として、環境問題への取り組みのように、稀少資源は奪い合いの対象となるよりも、対話の上で共同利用するというセンチメントの方が強く働く傾向にあると思われ、通常状態では稀少資源をめぐる争いというものは起こりにくくなっていると言える。そんな状態でありながら、経済学において、わざわざ利益を計量化してその極大化を想定したが故に、理論的には稀少資源である必要もないが、現実的には貨幣市場の均衡を想定すればスポット的には会計上常に稀少資源となる貨幣をめぐってのゼロサムゲームが繰り広げられざるを得ない状態となっていると言える。

概念としての閉鎖系がもたらす問題

二つ目の閉鎖系であるか否かということについては、地球の有限性を考えれば当然それは閉鎖系ということになるが、現実としては人が地球を隅から隅まで隈なく認識するということは不可能であることを考えると、ミクロ的に見れば事実上の開放系であると言っていいのだろう。その開放系の住人である人間がマクロ的な閉鎖系を想定して理論を組み立てるということに無理があるわけで、閉鎖とは一体何を指して閉鎖であるとするのか、ということを考える必要があるのだろう。経済学においては、国家経済を見るということで通貨単位での閉鎖経済と為替でつながる開放経済、そしてその開放経済を統合した国際経済という閉鎖系で考えられていると言える。つまり閉鎖とは、通貨の流通範囲が閉鎖であるということで、すなわち通貨の強制通用力が閉鎖経済を作り出していると言っても良いのだろう。だとすると、強制通用力を持つ通貨以外にも、企業の出すポイントであるとか、特定の店だけで使える商品券と言ったものは、その意味では閉鎖系ではないのだが、結局会計的に通貨価値換算して閉鎖系会計に統合するために、閉鎖系に取り込まれてしまっていると言える。一方で、物々交換などは会計的に計上されるわけではないので、閉鎖系外の経済活動だと言えるのかもしれない。ここで、会計外の取引をすればマクロとミクロの利益が共に増えるという理論的可能性が出てくることになる。しかしながら、これは法理論的に考えれば脱税であるとならざるを得ないことであり、要するに国という閉鎖系が残念ながらミクロとマクロの利益の不一致の原因であると、理論的には結論づけざるを得ないのかもしれない。

利益をスポット的なものにする要因

三つ目の利益はスポット的なものなのか否かということについては、会計的には決算を通じて利益の締めを行うので、そこに現れる利益はスポット的なものとなる。しかしながら、現実には日々取引が行われ、そこで利益が実現しているわけで、それをスポット的であると考えるべきか否か、というのは大きな問題となる。そこで、利益をどこで実現するのか、いわゆるマネタイズの問題が発生することになる。金融市場的な鞘取りは、そのマネタイズを瞬間瞬間に行って利益を具現化していることになり、それは長期的マネタイズを考えて日々仕事に取り組んでいる人の利益を攫っているということになりそう。つまり、金融市場の発達が利益をスポット的なものにすることに大きく貢献していると言えそうで、そして利益がスポット的である状態を理論化した金融市場均衡のために、稀少資源貨幣を閉鎖系の市場の中でスポット的に極大化するという極端にデフォルメされた経済が描写されていると言えそう。

利益偏重を避ける達成度重視の市場

こうしてみると、ミクロとマクロの利益の共存を行うためには、利益を金融市場的なものから引き離す必要が出てきそう。金融市場は会計的計算の集合によってなっており、だから、会計とは異なった利益という考え方を導入する必要がありそう。会計は、すでに書いてきた通り、時間軸を輪切りにしてそこでの貸借を考えるものであり、貸借である以上ゼロサムであり、ミクロの利益とマクロの利益は一致しない。マクロの利益を何らかの形で可視化するのならば、それとは別に時間軸に沿って目的、目標への達成度を測ってそれをミクロ的な非競合の満足のようなものとして評価することで、プラスサムの指標ができるのかもしれない。これに利益を組み合わせるのならば、満足の高さをターゲットとした株式市場とし、目標自体の評価と、達成度の評価という二面性を見ることで定性的な評価が加味できるようになりそう。株価の水準は利益よりも目標とその達成度によって決まることになり、そして株主はその目標についての文脈トークンを手に入れることで手札として使える文脈を増やすことができる。さらに利益偏重とせず、株価が上がったことによるメリットをその会社に還元するために、キャピタルゲインの半分は売買された会社に帰属するようにする必要がありそう。これによって株価を上げることへのインセンティブが会社自体につくことになり、株式市場の活性化も期待できそう。

非競合的達成度目標

この目標達成度に基づいた評価制度は競合的ではないので、ミクロ的利益の嵩上げも期待できる。お互いの文脈がわかっているということは、取引の際の信頼構築がしやすくなり、それによって取引が活性化することが期待できるからだ。目標を利益から引き離すことで、目先の利益のための取引が減り、そして利益を過度に意識する必要がなくなれば、投資余力等も上がると考えられ、商流がうまく動き出しそう。取引、商流の活性化は経済自体を動かすようになり、結果として利益も意識せずとも上がってくるのではないかと考えられる。利益を目標から引き離す方が、結果として利益も増すようになるかもしれないのだ。

このように、ミクロ的な利益に過度に焦点を当てた考え方から少し角度を変えてみるだけでさまざまな可能性が見えてくる。既存の経済学の枠組みに捉われることなく、さまざまな視点から問題のありか、そしてその解決法を探る必要があるのかもしれない。

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