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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史

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広島を基点に考える歴史と未来。 いかにして広島を寛容と対話の地域にしていけるか、などと大それたことを、余所者が考えています。広島にはその可能性が満ち満ちている、と考えていますが、…
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#創作大賞2023

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(32)

明治維新における吉田 ー 吉田松陰を軸に吉田藩について見てきたが、吉田というのは明治維新以降姓としても頻出するようになる。幕末期において目立つのが、長州の吉田松陰ということになる。率直に言って、その実在は怪しいのではないかと感じるが、とにかく例によってWikipediaから引用してその足跡を追うところから始めたい。いつものことだが、Wikipedia全体もそうだが、とりわけ明治維新時の記述は安定的だとは言えないので、その引用内容自体おかしな情報が含まれているかもしれないことは

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(31)

ロエスレルの商法草案明治十四(1881)年四月、『会社条例』草案が脱稿、同月、太政官が商法典編纂を決し、太政官法制部主管山田顕義は、ドイツ人ヘルマン・レースラーに商法草案の起草を委嘱する。 明治十五(1882)年五月、前年に設置された「太政官ニ属シ、内閣ノ命ニ依リ、法律規則ノ草案審査ニ参預」する参事院に商法編纂局が設置され、九月にレースラー草案中、すでに完成していた総則および会社の部分に修正を加えた百六十ヶ条からなる草案を作成するが、不採用となる。 明治十七(1884)年一月

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(30)

版籍奉還と吉田藩さて、このシリーズの初めのあたりで、『棚守房顕覚書』の中身を紹介し、その中で毛利氏と吉田との関わりについて見てきたが、その話の延長線上に、毛利氏の長州藩が主体となった明治維新というものを位置付けられるのではないだろうか。そこで、主語がなんとも言えないので少しわかりにくいが、吉田をどのように用いて明治維新というものを進めてきたのかを考えて見たい。 広島藩の動き まず、吉田というのが、幕末に広島藩支藩の吉田藩の入封によって名前が浮かび上がるということはすでに述

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(29)

明治十四年『会社条例』草案明治期の法律について見ているが、この時期の話は、日本の歴史のみならず、世界中の近代化への歩みの基礎を定めている時期であったということで、認識の整理が世界中に波及し、情報が錯綜する、ということがリアルタイムで起きている。だから、今見ている情報が確かなもの、固定的なものなのか、ということもなかなか分かりづらく、そして調べるに従って圧力らしきものを感じることも、そして情報が変わったりするように感じることも多々ある。その意味で、今書いている情報も、現段階の整

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(28)

純友がいかに住友となったか前回藤原純友の話をずいぶん膨らませて書いたが、それを住友に繋げようとするのはさらにアクロバティックな知恵の絞り方が必要となる。引き続きNonFictional-Fictionでお楽しみいただけたら幸いです。 ケンペルの『日本誌』 住友は別子銅山から始まっているというのはすでに書いたとおりだが、その別子銅山の開坑は元禄四(1691)年とされる。その年は、オランダ商館のエンゲルベルト・ケンペルが江戸に行き、将軍綱吉と会ったとされている。ケンペルの『日

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(27)

明治十四年の政変明治十四(1881)年四月、『会社条例』草案が脱稿、同月、太政官が商法典編纂を決し、太政官法制部主管山田顕義は、ドイツ人ヘルマン・レースラーに商法草案の起草を委嘱する。 会社法についての続きだが、明治十年までの『会社条例』草案に関わる動きまで見てきた。その後、明治十年には西南戦争が、そして明治十一年には紀尾井坂の変があり、西郷、大久保という薩摩の両巨頭が相次いで世を去った。 地租改正に伴う混乱 個人的な感覚では、この時期には、まず地租改正に伴う全国的な混

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(26)

藤原純友過去の話は吉備国まで行ってしまって、少し範囲が広がり過ぎで戻れるかどうか不安になってきた一方で、未来について書くべき方でも、すっかり近代史の密林にはまり込んでしまったので、方向感を合わせながらなんとか収束を探らないといけなくなってきた。 そこで、前回たままた藤原純友の話が出てきたので、そこに繋げることで距離を縮めてみたい。前回の話では、住友家というのがもしかしたら藤原純友の文脈を引き継いでいるのでは、という趣旨で結構な冒険をしてしまったが、それを歴史的な面から少し補強

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(25)

明治八年会社条例草案引き続き『日本会社立法の歴史的展開』についてみてみたい。第二章の「近代的会社法の出発」の要約と補足をしてゆきたい。 会社法成立に至るまで 前回の明治維新以降会社法成立以前の株式会社に関わる動きに続くこの時期には、官有物払い下げ事件などもあったので、社会の動きとの関わりが欠かせないと思うのだが、残念ながら、本書では、法律の形式論的なものに終始していて、どうにもその背景がわかりにくい。そのあたり、わかる範囲で補足してゆきながらまとめてゆきたい。 わが国最初

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(24)

備後吉備津神社前回、『延喜式』で備後国一宮とされていると考えられている備後の素盞嗚神社について見たが、その『延喜式』には名前がないものの、一宮を称している備後の吉備津神社について見てみたい。 地元で「一宮さん(いっきゅうさん)」と通称されている、という部分で、少なからぬ揶揄のようなものを感じるのは私だけであろうか。つまり、地元ではやはり素盞嗚神社が一宮であり、こちらの吉備津神社はいっきゅうさんに過ぎない、ということなのだろうと私は受け止める。それは、隣の吉備色があまりに強い

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(23)

「会社」の勃興期引き続き『日本会社立法の歴史的展開』を見てゆきたい。第1章Ⅳ「会社」の流行 から要約と私見の続きを試みたい。 数字から見る第一次会社勃興時代 明治十(1877)年の西南戦争鎮定後に会社を名乗る企業が急増し、第一次の会社勃興時代が到来したという。掲載された表から見るに、まず、日本銀行条例が制定され、紙幣発行額がピークに達していたと見られる明治十五(1882)年に会社数は3655、見た目ではあるが金融業を除いても3000くらいの会社があったようだ。その後、紙幣

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(22)

牛頭天王の起源京都祇園社の祇園、そして素戔嗚信仰については、津和野の祇園社、つまり弥栄神社が元になっているのではないか、ということを書いてきたが、それでは京都祇園社でその本地とされる牛頭天王についてはどうなのだろうか。これに関しては、津和野祇園社弥栄神社にはその名残は見当たらないので、何らかの別の話がありそう。 播磨 広峯神社 そこで前回の播磨広峯社の話に戻ることになる。 牛頭天王の元が広峯神社だとする説があるとするが、それがいつ広峯神社に入ったのか、ということについて

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(21)

株式会社改革への道1 銀行制度の確立帝人事件がらみで株式会社の歴史について調べたくなり、会社法の整備の流れがわかる本を探していて、『日本会社法立法の歴史的展開』という本で大まかな流れが掴めたので、何回かにわたってその要約をしながら、最終的には株式会社制度をどうしたら良いか、ということについての私案をまとめてみたい。引用ではなく感想込みの要約なので、解釈が間違っているところがあるかもしれないことは事前にお詫びいたします。 幕末の動き まずは、幕末における西洋との接触から、会

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(20)

吉田の起源を追って ー 信仰心の広がりの行方前回吉田と京都祇園社の関わりについてみて、津和野までは戻れなかったが、今回はそこを探ってみたい。 益田氏と吉見氏 津和野の北に位置する益田を拠点としていた益田氏が兼の字を通字としていたとされる。益田氏には、いくつかの系図が残されており、かなりの長期間にわたって兼の字を使い続けているが、支流がいくつかあったようで、益田氏自体が本家だったかどうかは定かではない。そして吉見氏とは、婚姻関係を結んだり、敵対したりして、単なる対立構図では

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(18)

祇園社と吉田津和野の祇園社についてみたが、その祇園社と吉田がどのようにつながってくるのかをみてみたい。 京都祇園社 そこでまず、京都祇園社について見てみたい。京都祇園社は元々興福寺の末寺だったのが、10世紀末に延暦寺の末寺に変わったという話がある。その頃の延暦寺は、天台座主の座を巡って山門派と寺門派が激しく相争っており、今残されている記録では寺門派の始祖円珍以降、座主の多くが寺門派から出ていた。それに対して、966年に座主となった良源は特に後ろ盾もなかったが、その年に焼け