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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史

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広島を基点に考える歴史と未来。 いかにして広島を寛容と対話の地域にしていけるか、などと大それたことを、余所者が考えています。広島にはその可能性が満ち満ちている、と考えていますが、…
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2023年6月の記事一覧

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(23)

「会社」の勃興期引き続き『日本会社立法の歴史的展開』を見てゆきたい。第1章Ⅳ「会社」の流行 から要約と私見の続きを試みたい。 数字から見る第一次会社勃興時代 明治十(1877)年の西南戦争鎮定後に会社を名乗る企業が急増し、第一次の会社勃興時代が到来したという。掲載された表から見るに、まず、日本銀行条例が制定され、紙幣発行額がピークに達していたと見られる明治十五(1882)年に会社数は3655、見た目ではあるが金融業を除いても3000くらいの会社があったようだ。その後、紙幣

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(22)

牛頭天王の起源京都祇園社の祇園、そして素戔嗚信仰については、津和野の祇園社、つまり弥栄神社が元になっているのではないか、ということを書いてきたが、それでは京都祇園社でその本地とされる牛頭天王についてはどうなのだろうか。これに関しては、津和野祇園社弥栄神社にはその名残は見当たらないので、何らかの別の話がありそう。 播磨 広峯神社 そこで前回の播磨広峯社の話に戻ることになる。 牛頭天王の元が広峯神社だとする説があるとするが、それがいつ広峯神社に入ったのか、ということについて

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(21)

株式会社改革への道1 銀行制度の確立帝人事件がらみで株式会社の歴史について調べたくなり、会社法の整備の流れがわかる本を探していて、『日本会社法立法の歴史的展開』という本で大まかな流れが掴めたので、何回かにわたってその要約をしながら、最終的には株式会社制度をどうしたら良いか、ということについての私案をまとめてみたい。引用ではなく感想込みの要約なので、解釈が間違っているところがあるかもしれないことは事前にお詫びいたします。 幕末の動き まずは、幕末における西洋との接触から、会

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(20)

吉田の起源を追って ー 信仰心の広がりの行方前回吉田と京都祇園社の関わりについてみて、津和野までは戻れなかったが、今回はそこを探ってみたい。 益田氏と吉見氏 津和野の北に位置する益田を拠点としていた益田氏が兼の字を通字としていたとされる。益田氏には、いくつかの系図が残されており、かなりの長期間にわたって兼の字を使い続けているが、支流がいくつかあったようで、益田氏自体が本家だったかどうかは定かではない。そして吉見氏とは、婚姻関係を結んだり、敵対したりして、単なる対立構図では

広島から望む未来、広島から顧みる歴史(19)

ILOと労働前回ILOの設置についての問題が、東京帝国大学の経済学部設立と大きく関わっていたことを見た。そこで、このILOと労働についての問題をもう少し掘り下げて、Visionary-Essayとしてみたい。 ILOのあり方 ILOは、ベルサイユ条約第十三条でその規約が定められ、第一条で定められた国際連盟よりも先に動き出したということで、ある意味において国際連盟自体よりも先行する形で定まった世界初の国際機関だと言える。そしてそのエッセンスは、政府、雇用者、労働者の三者の代

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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(18)

祇園社と吉田津和野の祇園社についてみたが、その祇園社と吉田がどのようにつながってくるのかをみてみたい。 京都祇園社 そこでまず、京都祇園社について見てみたい。京都祇園社は元々興福寺の末寺だったのが、10世紀末に延暦寺の末寺に変わったという話がある。その頃の延暦寺は、天台座主の座を巡って山門派と寺門派が激しく相争っており、今残されている記録では寺門派の始祖円珍以降、座主の多くが寺門派から出ていた。それに対して、966年に座主となった良源は特に後ろ盾もなかったが、その年に焼け

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(17)

昭和財政史 大内兵衛『昭和財政史』(戦前編)の序説はもう少し続くが、あとは戦後の発展と本文の構成なので、特に記すこともない。そこで本文なのだが、序章の大正時代のところを読んでいるところで、それを書いた大内兵衛という人物について少し引っかかったので、そこから始めてみたい。 大蔵省入省 Wikipediaをさっとみてまず引っかかったのが、 の部分。東京帝大卒業後に大蔵省入省で大臣官房銀行課配属となっているが、略歴でも、銀時計の受領も1913年となっており、なんらかの理由で2

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(16)

吉田の謎を追う ー 津和野前回は吉田庄についてみた。その吉田という名が『棚守房顕覚書』の中でかなり恣意的に用いられているのでは、という感覚を受け、そのために吉田庄について調べることになったが、その吉田についてもう少し進めて調べてみたい。なお、今回の記事は、まだ訪れていないところのことに多く触れるので、これからの調査によっては、その感覚はまた変わることもあるかもしれないということを先に指摘しておきたい。 津和野と祇園 厳島神社から見る毛利元就1で、吉田が津和野かもしれないと

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(15)

戦前昭和財政の様相1日本における財政政策がどのような経路を辿って発展してきたのかをみるために、戦前の日本財政について公式記録から見てゆきたい。本来ならば明治維新以降ずっと追うべきだし、そうしないと見えないことがかなり多くあるのだと思うが、今回はそこまでやると範囲が広がり過ぎてしまうと感じるので、ここまで見てきた昭和金融恐慌に繋げるということで、昭和に入ってからのものを見てゆきたい。基礎資料は、『昭和財政史』(戦前編)。全十八巻の大分なものなので、全てに目を通せるかというとそう

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(14)

元就の本拠 吉田庄『棚守房顕覚書』を見てきて、元就が本拠とした郡山、この郡山という地名は当該本には一度も出てこなかったが、とにかくそこを吉田としようとする動きが感じられたことは何度か触れた。そこで、その吉田というのがいったいどのような経緯で、どのような意味を持って取り上げられてきたのか、その背景を独断と偏見で探ってみたい。 吉田庄の記述 ではまず、吉田庄について、『高田郡史』からみてみたい。 文献整理 ここでそれぞれの文献についてまとめると、 『祇園社記』 『祇園

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(13)

為替制度改革金本位制の成立から戦間期の金本位制放棄の様子を見てきたが、そこから為替についてもう少し考えてみて、今回もVisionary-Essayが仕上げられれば、と期待しながら書いてみたい。 金本位制の実態 現在の変動相場制から見ると、いかにも金本位制の時代が理想的であったかのような印象を受けるが、その実態はどのようなものだったのだろうか? 古典的金本位制 近代的な金本位制度が1973年のドイツ帝国による古典的金本位制の導入であったところから見た。これは、基本的に国

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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(12)

厳島から見る毛利元就2引き続き、『棚守房顕覚書』より、陶隆房の謀反のところから毛利との関わりを追ってみたい。 どうも、祇園社から吉田を”當社”に寄進した毛利の力を用いて、大内が討たれたのを機に勢力を拡大しよう、という意図の元に話を進めているように感じられる。 大内を討った陶が元々仲のよくなかった吉見征伐に出かけ、毛利に助力の催促をしたが、そうはならずに己斐、草津、櫻尾の城をとって神領ヘ向かった、ということか。ここで宮島と當島が別に書かれていることには注目したい。  そし

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(11)

選挙制度について前回普通選挙法が導入されたときのことを少し書いたが、それにかけてのVisionary Essayとして、選挙制度についてまとめてみたい。 日本選挙制度の歴史 まずは、日本の選挙制度の歴史をみてみたい。その始まりは、明治7(1874)年に、民撰議院設立建白書が提出されたことだと言える。そこから長い議論を経て、明治22(1889)に大日本帝国憲法発布され、衆議院議員選挙法も制定されて、ようやく選挙制度が導入された。最初期の選挙は、満25歳以上の男性で直接国税1

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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(10)

厳島神社から見る毛利元就1ここで、厳島合戦についての基礎資料となる、厳島神社の棚守であった房顕の記した覚書を見てみたい。 『棚守房顕覚書』 まず、旧宮島町発行の『棚守房顕覚書付解説』からその基本的情報を見ておきたい。棚守は厳島神社の奉行を行う職名だとのこと。本姓は厳島宮司家である佐伯で鞍職から二十五代目、景弘からは十五代目に当たるというが、正確には不明だという。陶氏、毛利氏、大内氏の御師職を兼ねていたということだが、社の奉行を行う棚守と代理で祈りを行う御師を兼ねるというの