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豊かなココロ

ほんとうの豊かなココロって、どんなのかと思う。私は、一緒くたには言えないが、

お金や物に恵まれて、きらびやかに不自由なくて……。そんなものが、豊かなココロを生むのでは、私は、ない気がするのだ。

豊かなココロ。

ほんとうの豊かなココロは、人に恵まれ、それに感謝し、自分の今 手元にあるものに満足できる、そんなココロのような気がする。

決して、今 近くに居る人間を「くだらない」と、軽蔑し、遠ざけることでもない気がする。

私は常々、周りの人にこう言っている。
「ひとを『くだらない』と、言っている人間が 一番くだらないよ? 」

ひととは、縁で繋がっている。
そのなかで、気が合う合わないはあるが、「袖振り合うも多少の縁」とも 言われる。

幼い頃、私が 正直 バカにしていた幼馴染が 大きくなって 成績や仕事などでも 私を追い越すことは たくさんあった。

その時点で、小さく見えた存在が、社会のなかで いつの間にか大きくなっていたりする。

幼馴染がそうだった。
風采のあがらない子だった。
しかし、その子はとんでもない才を持ち、ある分野で、台頭していった。

私は、こういうことが「人は見かけによらぬもの」ということだと解釈している。

あなたの周りの、あなたが「くだらないひと」と、思っている人は ほんとうに「くだらないひと」ですか?

ひとに秘められたものは、無限で 想像もつかないものでもあります。

一時期のそのひとの一面では、測れないのがそのひとの本質。
そのとき視たのは、たったの一面です。

たったの一面で判断し、折角の御縁を手離してしまう。
勿体ないと思います。

縁が繋がらないなら仕方ない。性格が合わないなら仕方ないこともあります。

けれど、相手がよほどの悪人でもない限り、縁があったら自分から手離さないほうがいいと思います。

ひとと、一生のうちに関わり合う人間は、世界に比べたら僅かなものです。
そのなかで、お付き合いする人間は、さらに少なくなります。
その人間を「くだらないから」と、手離すのはどうでしょう。

ひとは、どちらかが教える立場になり、また 違う時期では教えられる立場になり、成長していきます。

いま、自分が上で 教える立場でも 病気になったり、怪我をしたりで、ほかから出遅れることもあります。

そして、言いたいのですが、あなたは、自分がひとをバカにできるほど偉いのですか?

まったく、ひとから劣ったところは無いのですか?
欠点は?
不得意なところは無いのですか?

以前、働いていたときのことなのですが、私は ひとをやたらと注意して回る人に 心のなかでは(自分が、欠点なくしてから言ってよね)と、思っていました。
その人は、私が その人の失敗をカバーしても なんのお礼も言いませんでした。

ひとには、得意も不得意もある。

その、得意、不得意の凹凸を補い合い、歯車として(この表現が嫌いなひともいると思いますが)世界をうまく回しているのが、人間です。

豊かなココロとは、
そうやってひととひとが、違っていて、補い合っている。
それを知っていて、把握して、感謝できる人間なんだと思うんです。

かけっこの遅かった女の子に、別のところで助けてもらったことはありませんか?
いつもイジメるイジメっ子が、時々「おまえは、こういうところが良いよな? 」と、言ってくれたことは ありませんか?
ドッジボールで、受け取るのが上手い子が、時々庇ってくれたり。
目立たない女の子が、ハンカチを貸してくれたことはありませんか?

ひとを「くだらない」と見下して、折角の縁を捨てて良いのですか?

成功哲学を鵜呑みにして 折角の御縁なのに 捨てていいのてすか?

世のなかの、成功者の成功哲学でも、ことわざでも、教科書でも。

一度は、疑ってみるものです。

勿論、古代からの「いわれ」でも。

なんでも鵜呑みにしてしまうのは、そのひとの尊厳が足りないように思います。

ガリレオは、それまでの「天動説」を疑って「地動説」を唱えましたが、それが正しかったのです。

歴史上、そんなことはたくさんあります。

既存のものや、成功哲学でも、自分で確認し納得したものだけを取り入れるのが、ほんとうの道だと思うのです。勿論、最初はなぞらえても いつか、独り立ちしなければならないと思います。

豊かなココロとは、ひとに感謝し、ほんとうの知恵、叡智を求め、「ひととして懐を深くしていく」のも含まれている……。

私は、そう思います。


©2024.3.5..山田えみこ









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