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カルト宗教と毒親問題

新興宗教にのめり込むことと、毒親問題とはとても似ていると思う。いや、似ているというより、それらは深くリンクしている。

過去にある新興宗教に縁があり、いつも心の奥深くで感じる違和感を持て余しながらも、20代から30代の貴重な時間をそこと繋がって過ごしていた私にとっては、自らでその洗脳を解くまでのプロセスは自分自身との向き合いの時間だった。

今回の旧統一教会に関するニュースを見ていても思ったのだが、新興宗教にどっぷりはまってしまう人達は、真面目で優しい人が多い気がする。つまり「洗脳」されやすい人は「素直」なのだ。

もちろん「素直」な人は世の中にたくさんいて、そのすべてが洗脳の罠に陥るわけではない。また、はまったものがカルトと呼ばれる危ういものではなく、既存の世の中に認められている宗教であった場合は、「敬虔なクリスチャン」や「信仰心の篤い仏教徒」と呼ばれるのだろう。

では、カルトと既存の(あまり害がない)宗教とでは、一体何が違うのだろうか。極論でいうなら、創始者もしくは運営側に、他人をコントロールしようという強い意図もしくは悪意があるかないかなのだと私は思う。(もちろん、既存の宗教においても、過去現在においてその悪意やコントロールが全くないとは言わない)

そして、それにコントロールされてしまう人達というのは(かつての私を含め)、自分のパワーを誰か他人に明け渡してしまうことを良しとしてしまっている人達なのだ。またそれに加えて、性善説が根底にある。人を疑ってかかる人は、カルトにはハマりようがない。

私の夫は、絶対に宗教に入ったりはしない。モノを売りに来たセールスマンでさえ、自分をコントロールしようとしたらそれに反発して喧嘩したりする。(もちろん親から受け継いだ仏教は、葬式仏教のレベルでちゃんとこなしているが、全くそれはただの義務だとしか思っていない。自分が死んだあとは、お墓も仏壇も処分しても構わないとさえ言う)

具体例で私と夫との違いを考えるならば、彼は親にとても愛されて育ち、それに加えて自分をとても信じている。誰かのアドバイスを欲することなどほぼないし、他人にどう思われるかなど全く気にしない。

それに対して私は、下からのコントロールのある母親(可哀想な親を演じることで子供をコントロールする)の呪縛に気付かず、心の奥底でずっと無償の愛を求め続け、それを得られないと感じて生きてきた。いつも心の拠り所を求めていたので、宗教やスピリチュアルなどの世界を彷徨い、自分以外の何かに愛を求めて生きてきた。そんなこんなだから、もちろん自分に自信なんてない。自己肯定感はものすごく低い。

十数年の長きに渡って抜けられなかった新興宗教も、最初は当時どん底の状態だった私を心から心配して誘ってくれた友人の真心が嬉しくて入信したのだった。(彼女は宗教二世で、本当に私を心配してくれて、心からの善意でそうしてくれたと感じたのを覚えている。私は彼女の気持ちが嬉しくて、彼女に言われるがままついて行ってしまったのだ)

当時の私はある意味素直で、そして表面的にはわかっていなかったけれど、苦しい自分をなんとかしたいと願っていたのだと思う。

宗教と毒親問題がなぜリンクすると思うかというと、人は無償の愛をいつも心の奥で求めている存在であり、それが無償の愛かも!と、実際にはそうではないのにそうあってほしいと願ったものに強く執着してしまう・・というプロセスが同じだからだ。

今回色々出てきている旧統一教会においても、脱会した二世の人によると、霊感商法などで旧統一教会がメディアに責め立てられたときに、親はその宗教を疑うのではなく、「お父さまが可哀想だ」と泣いていたという話をしていた。もしその親自身が、自分の親との関係性が無償の愛で繋がっていた人だったならば、お布施を巻き上げ続ける宗教指導者を「お父さま」と慕い続けるはずはないと思うのだ。

私自身ずっと性善説で生きてきたが、さすがに半世紀以上生きた今では、世の中には「悪意」を持って他の人を傷つけることを厭わない人もいるのだと気づいている。自分自身が満たされることが唯一の望みで、他人が苦しもうが悲しもうが頓着しない人は確かにいるのだ。

カルト宗教の指導者も、毒親とよばれる人達も、根底は同じなのだと思う。意図的であるなし自覚のあるなしは別に、放っているのは相手に対しての「愛」であるように見せかけて、本当は彼ら自身の自己愛でしかないのだ。

そしてその落とし穴にはまってしまう人達は、どこかで片目をつむってそれを受け入れてしまう人達だ。カルトの教祖も毒親も、本当は自分を愛してくれてなんていないことに気付くのが嫌で、自分で創りだした嘘の世界に居続けてしまっている。

私はあるきっかけで新興宗教の洗脳を自分で解いてそこから抜け出すことができたが、実はもっと根が深い親からの洗脳はまだ完全には解けていないのを知っている。また、社会そのものの洗脳というものも実は存在していて、それがあまりにも私たちに当たり前になっているからこそ、そこから自由になっていないことにも気付いている。

今回のできごとは、一人の人間の悲しい死と、それを引き起こした容疑者の明らかになりつつある悲しいバックグラウンドの両方にフォーカスが当たることで、それが重要な社会問題提起となり、国民レベルでの大きな変容のきっかけになると感じている。

あくまでも起こる出来事は他人事ではなくて、それに心が動くときには必ず自分の中にあるものの見つめと変容が呼び起こされている。他人事を自分事として丁寧に見つめてみることで、一人一人のレベルで何らかの変化が起こり、それの総体としての社会が初めて変わっていくのではないかと思うのだ。