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わたしの中の鬼について

先日、ある有料のラジオでわたしの体験談が読まれました。
この内容はその続きとなるもの。これはあくまでわたしの体感であり、親問題や自分を取り戻していく過程から吹き出したもの全てが入り混じっています。

わたしは3年程前のあるコースをきっかけに地獄の蓋が開いてしまい、それから人生に負けつづけ、底なし沼に転がり落ち続けました。
手放すというより、勝手に手からこぼれ落ち、抵抗する力さえなく流されるしかなかったとも言えます。

どこまで落ち続けるのか底の見えない沼に絶望しながら、どこか楽になっていく自分も感じていました。
随分、人でなしの自分を認めてきたつもりでしたが、わたしの鬼は想像以上に根深かく、怒り、執着、恐れ、孤独、利己などなど腹の中のマグマに体がどうにかなってしまいそうと思った時期があります。

切り離すことができるならしたかったけど、
わたしは全てを包みたいと思いました。
捨てた破片は時としてそのことを恨み反発するのではないか、
あっちだけ連れていって、どうしてわたしは連れていってくれないの?
わたしはそんなにダメな子なの?と。
悲しさは積もり積もって怒りになり恨みとなる。
でもその忌み嫌う子を抱きしめる手があったなら
争いは起こらなかったのではないかと思います。
抱きしめる、包み込む、蹴られても、暴れても離れない。そうしてある時、争いは終わっているのかもしれません。
どんな子だってわたし。
わたしはわたしを見放すことだけはもうできないと思います。
そして捨てたはずの破片は本当は思っているよりずっと優しい。逆に包み込まれていたのは自分だったと今は思っています。

わたしはきっと鬼に守られていた。
自分の中に鬼がいてくれたからなんとか壊れずに持ちこたえたんだと思います。

わたしの場合、それは少し大げさな例えに聞こえるかもしれませんが
まるで多重人格者の人格統合のようでした。
怒りとか暴力的な激しい担当みたいな一番やばい人格を戻すようなイメージ。
今はそんな毒々しい自分もおもろいなと思っています。
わたしの誇りであり、個性であり、宝物です。
力が蘇るのが分かります。そしてどんどん口も悪くなってきました。 笑

きっと鬼の形は人それぞれ。たまたまわたしの場合はそのようなタイプでした。

誰にでも闇があります。わたしはその闇がとても愛おしい。
それは苦しみながらも生き抜いてきた証であり、
その隠したいところにこそ、その人の個性や、才能があふれている気がします。
鬼はパワーであり、根源であり、ただの愛です。
(わたしは愛という言葉の奥深さをどこまで理解しているか定かではなく、他の表現を探しましたが、今のわたしにはその言葉以外見つかりませんでした)
受け入れられた鬼は、その人をその人たらしめるただの魅力。
否定された鬼はすねて害になるのかもしれません。
存在を否定されることは何よりも辛いことだからです。

親でも鬼でも、たとえ分かり合うことはできなくても
ただそのままの存在を認めあうことができたら
それは愛だったのかと思えるのかもしれません。


追記⭐︎
マーマーマガジンさんの「声のメルマガ 服部みれいのすきにいわせてッ」という有料のラジオで読んでいただきました。

「声のメルマガ 服部みれいのすきにいわせてッ」noteにて
編集部員の榎本かおりがご感想を書いてくださっていて
その文章がとてつもなくすばらしくて、
自ら語ってくださったトラウマについても深い共感を抱きました。
またわたしが送ったのは抽象的な文章だったにも関わらず
深く心を汲みとってご理解くださった洞察力と懐の深い愛を感じられたことは
あまりにもうれしいことでした。

もちろん服部みれいさんのすばらしさは言うまでもありません。

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