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映画『すずめの戸締まり』を観て感じたことを熱く語る

先日、『すずめの戸締まり』を観た。

私が、新海誠監督の映画を観たのは『君の名は。』からである。
ヒロイン三葉が住んでいる場所が、岐阜県の飛騨地方にある「糸守町」という設定だったことから、公開当時は、飛騨地方に住んでいる老若男女が皆、この映画に興味を持ち、遠くの映画館まで見に行ったものだった。

私もそんな中の一人で、流行に乗っかって軽い気持ちで映画を鑑賞し、そこで新海ワールドにすっかり魅せられてしまった。その後、公開された『天気の子』も隣県の映画館まで車を走らせて観に行っている。

そんな流れから、今回の映画も楽しみにしていた。

この映画を観終わった時、しばし言葉が出てこなかった。

一緒に鑑賞した夫も同じく、全く言葉が出てこなくて、二人で黙ったまま、近くのフードコートで遅い昼食のチャンポンを食べたのだった。

食べ終わった後も、映画のことを語る気持ちになれず、ようやく帰路の車の中でポツリポツリと話し始めた。

しかし、この時も、ただ一言「良かった…」という言葉しか出てこなかった。

それは劇中、ヒロインが起きたことを説明するように促されても、「これはちょっと説明しにくい…」と言って、何度も無言を貫いたのと同じ心境かもしれない。そう、なんとも説明しにくいのだ。
言葉では表現しきれないもの、あるいは、言葉を越えた何か大きなインスピレーションを、私たちは確実に受け取ったのだと思う。

だから、あえて言葉にしなくても、この映画を見た者同士で、気持ちが通じ合える…。そんな気がした。

映画のチケット


ちなみに、今まで見た2作と比べて、この『すずめの戸締まり』のストーリーは、非常にわかりやすい。シックスセンスを働かせなくても、自然と内容が飲み込めるし、ストーリー展開に沿ってすんなりと内容が理解できる。

このわかりやすさは、おそらく、この映画が「東日本大震災」をテーマの一つとして扱っているからではないか…と私は思う。

あれから11年が経ったとはいえ、まだ震災で受けた傷を背負ったまま彷徨うように生きている人々もたくさんいる。人々の心には、今もまだあの生々しい記憶が鮮明に残っている。

そんな人々と、亡くなられた人々、その記憶が深く刻まれた被災地、これらの鎮魂と未来への出立がこの映画の大きなテーマであると感じた時、変に誤解されて間違った受け止め方をされないよう、また、どんな人にもちゃんと届くように、新海監督はあえてわかりやすい作り方をしたのではないか?…と、そんな気がしたのだ。

さらに、この映画は、今までの2作のような青春ラブストーリー的な要素が薄められ、ヒロインとヒーローの関係が、恋愛ではなく「同士」という形で描かれている。もちろん、最後のシーンではお互いに心を寄せ合い「大切な存在」として相手を意識しているが、それは甘い雰囲気ではなく、共に戦い抜いた仲間として絆が深まった…というようなニュアンスになっている。

この点も、おそらく被災した人々への、新海監督のきめ細やかな配慮だろう…と私は受け止めた。震災を扱うのに、これを甘い恋愛ストーリーとして仕立ててしまったら、(まだ多くの人の記憶に残っている)災害発生時の壮絶さや悲惨さがうまく消化できず、上辺だけの軽く浮ついたものに成り下がってしまう。

リアルにあの震災を体験した人々が受けた「心の傷」と「肉体の傷」は、そんな甘い恋物語で簡単に癒せるようなものではない。だからこそ、キラキラとときめく恋物語ではなく、命を懸けた闘いの物語にしたのではないか…と感じたのだ。

もう二度と立ち直れないのではないか…と思うほどの深い悲しみに打ちひしがれ、苦しみにのた打ち回っていても、淡々と生きていくなかで、日常の暮らしが「日にち薬」となり、少しずつ傷の痛みに慣れていく。
この痛みを抱えながら、足を引きずるように生きていくことも可能だけど、しかし、いつかどこかで、過去の記憶に縛られている自分にキリを付けて、自らの手でその記憶の扉を閉じることも必要である。

東日本大震災から11年。阪神淡路大震災から27年。その間にも、様々な災害が起きて、多くの人々が苦難の道を歩んでいる。また、災害でなくても、耐えがたい苦しみを背負って生きている人々もたくさんいる。

そんな人々も、いつかは過去の扉を閉じて、前を向いて生きていく時がやってくる。そんな出立の時にそっと背中を押してくれるように、過去の記憶を手放して前進する勇気を与えられるように、そんな願いが込められていると私は感じたのだった。

映画館でもらった無料パンフレット。一人一人に手渡されたこのパンフからも、観客へきめ細やかな配慮を感じた。

◇◇◇

【以下、ネタバレです。まだ映画を観ていない方はお控えください】


『すずめの戸締まり』には、日本の各地でどんどん増えている廃墟が出てくる。

かつては人がいた所であり、栄えた時もあったのに、様々な理由により、人がいなくなり、寂れてしまった場所が、今、日本にはどんどん増えている。

私が住んでいる町にも、空き家がポツリポツリと目立つようになったし、限界集落と言われる地区も増えている。日本の至る所で、人が減り、住んでいた人々も老衰で亡くなり、家が空き家となり、ムラが消え、どんどん土地が空洞化している。

昔は、そこに多くの人がいて、多くの世帯が家を構え、活気があり、賑やかで明るい日常があった。また、この光景は永遠に続くのだと、皆が信じていた。

しかし、人は死に、持ち主がいなくなり、そこは廃墟となる。

人々の記憶が多く残る場所に、「後ろ戸」が生まれ、その扉を閉じる仕事を世襲で受け継いだのが宗像草太むなかたそうたという青年だった。

彼は、全国に出没する「後ろ戸」を閉じる旅をしていて、岩戸鈴芽いわとすずめが住む宮崎県のとある町を訪れる。

草太と鈴芽は、たまたま道ですれ違うのだが、この時、鈴芽は草太に対して不思議な縁を感じる。どこかで会った気がしたのだ。

鈴芽は、東日本大震災の震災孤児であり、幼かった彼女は、母親の妹(おばの環)に引き取られて、東北から九州に移住した身である。
鈴芽は、時々、母親を探し求めて被災地を彷徨い歩いた時のことを夢に見ている。絶望と失望を嫌と言うほど味わった悲しい体験であり、彼女の心に刺さったままの棘のような記憶だった。


震災や災害によって廃墟となった場所もあれば、開発されたけど経済的に立ち行かなくなって手放されて廃れた場所もある。
様々な理由によって、人が去り、封鎖され、荒廃していく場所に、現れる扉。

この扉の向こうは「常世とこよ」であり、死んだ人々が生きる場所である。

生と死が「扉」一枚で隔てられているだけの世界。

この扉が開くと、なかからミミズと呼ばれる禍々しいモノが現れ、土地を揺るがし大地震を起こす。

日本が地震で崩壊しないように、草太の実家である宗像家は、代々「閉じ師」として、扉を見つけて閉じる仕事をしてきたのだ。

こんなに重要かつ大切な仕事を担っているのに、人々は「閉じ師」の存在など誰も知らない。

草太は「大事な仕事は、人から見えないほうがいい」とアッサリと言い放っていたけど、もしかしたら、私たちが今、こうして平和に安心して暮らせるのは、私たちの知らないところで、私たちを守る力が働いているのかもしれない。知らないうちに、誰かが私たちのために犠牲になってくれているのかもしれない。
昔の日本は、そうした見えない働きに対して「崇拝する気持ち」があったと思う。それが神への祈りとなり、自然を尊ぶ心となり、人と人とをつなぐ敬愛の念へと昇華していった。

しかし、今の日本は、目に見えないものへの「崇敬な念」や、自分たちのために陰で働いてくれている存在への「ピュアな感謝」が忘れ去られているように思う。

そんな忘れ去られた大切なものを、この映画は気づかせてくれる。

物語は、鈴芽がうっかり後ろ戸を開けてしまい、近くにあった要石かなめいしを抜いてしまったところから、大きく動き出す。
要石は封印を解かれて、小さな猫になる。

ダイジンという名前のこの猫は、草太を椅子に変えてしまい、草太と鈴芽の旅を先導していく。


草太を人間に戻すために、また、要石を戻すために、二人はダイジンを追いかける形で旅をする。
旅先では、いろんな人と出会い、ふれあい、温かいもてなしを受けて、人との交流を深めていく。
ここで興味深かったのは、鈴女を見つけて声をかけ、助けてくれたのは、みんな女性だったことだ。

家業を手伝っている女子高生のミキ、シングルマザーでスナックのママをしているルミ。

そういえば、震災孤児になった鈴芽を引き取って育てているのも、独身女性で鈴芽の叔母のたまきだ。

この女性たちが、鈴芽を見つけて、自分の家へ連れて行き、家族のようにもてなし、鈴芽をそっと抱きしめる。

こうして鈴芽は、たくさんの愛を受け止め、成長していく。

しかし、地方では愛にあふれた触れ合いがあったのに、東京では、誰も声をかけようとしないのが、ちょっと印象的だった。

上京し、御茶ノ水駅でミミズを見つけた鈴芽と椅子の草太が、後ろ戸を閉じようと格闘するなかで、草太が要石となってしまい、鈴芽は葛藤しながらも、東京を大地震から救うために、要石の草太をミミズに突き刺すのだ。

激闘によって傷を負った鈴芽は、靴を失くし、足は血まみれで、服も破れてしまった状態で、街を歩き、電車を乗り換え、都内にある草太のアパートへ向かう。

この時、鈴芽を見かけた人々は、「あの子ヤバくない?」「うわ!やばいよ」とコソコソと話し声をあげる。しかし、誰一人として鈴芽に声をかけたり、親身になってあげる者はいないのだ。

この街を救うために、草太は要石になり、鈴女は傷ついてしまった。だけど、街の人々は、彼女が自分たちのために「大切なこと」をしてくれたなんて、誰も気づかない。なんと切ないことか…。

鈴芽は草太のアパートに辿り着き、淡々とシャワーを浴びて泥だらけ体を洗い、傷ついた足の手当てをする。次のアクションのために、彼女は準備をするのである。

草太は、このまま要石として、日本を永遠に護り続けるのだろうか?

そこで、ふと思い出す。

鈴芽が最初に抜いてしまった要石…、子猫のダイジンは、どれくらいの年月を「要石」として過ごしてきたのか?…と。

要石に戻るよう説得する二人に対して、ダイジンは「無理」と言い放つ。もう充分に役目を果たしてきたんだから、自由に生きたい…と言わんばかりに。

もしかしたら、ダイジンは何十年…いや何百年とい長い間を、要石として役目を果たしてきたのかもしれない。

そういえば、神戸では、猫のダイジンが人間に見える人がいた。

要石の封印を解かれてから時間が経つにしたがって、ダイジンは元の姿に戻りつつあったのだろうか。もしかしたら、もともとは人間だった…ということもありうるのではないか。

草太が要石になったことを、草太の祖父が、(鈴芽から)聞かされた時、「役目を担ったことを喜べ」という意味のことを言っている。
草太の師匠でもある「閉じ師」の祖父は、草太が要石になったことを最初は「しくじった」と言いつつ、「(草太は)これから何十年もかけて神となる」と鈴芽に語る。

このとき、私は、もしかしたらダイジンは、昔、いろんな事情によって要石となった閉じ師ではないか…と思ったのだった。

人を、日本を救うために、自分の身と命を神に捧げて「人柱」となる。
遠い昔は、そういう人が存在していた。

遥か遠い昔、人々は土地を鎮め、神と繋がるために、命あるものを生贄として捧げる儀式を行ってきた。輪廻転生を知っている古代の人々は、現世は「捧げる」という役目を負うことも、自らの魂の歴史には必要なことだと覚悟していた。これは、現代社会を生きる人々には理解できないかもしれない。しかし、俯瞰して見ると非常に尊い役目なのだ。

劇中のダイジンは、長い間、人間社会から離れて、要石として生き続けたため、神のエネルギーを宿し、猫の形となって現世に現れた。

しかし、もともとは人間だったとしたら…。

「閉じ師」の仕事は、この世を守る大切な役目。世襲とはいえ、この役目を担うことはなんと重いことか。現世のバランスを保つために課せられた重大な責務である。

そんな家系に生まれて、幼いころから祖父の元で「閉じ師」の役割を学び、その仕事を継承するつもりでいる草太は、人々を救うために、時には自らの命を捧げることも惜しまない…という覚悟ができていたのかもしれない。

しかし、鈴芽と出会って、「死ぬことを恐れてはならぬ」という意思が崩れ、「もっと生きたい」と心から願うようになる。


それは、鈴芽も同じで、孤児となった強烈な体験から、どこかで「死ぬのは怖くない」という意識を持ちながら生きてきたのだろう。むしろ、死の世界の方に行った方が、亡くなった母親に会えるかもしれない。

生きることは、母がいない世界を生きることであり、幼い鈴芽にとっては絶望の世界であり、恐怖だった。あれから10年以上が経っても、いまだ心が抜け出せず、夢の中で常世にいる母を探し続けている。

しかし、鈴芽は草太と出会ったことで、現世を生きていることを自覚し、「草太がいない世界は怖い」と実感する。彼の存在が、鈴芽の生きる力になったのだ。

こうして鈴芽は、要石となって封印された草太を取り戻すため、覚悟をもって新たな旅に出る。

東北への出立の時、草太の友達である芹澤に声をかけられ、そこに(鈴芽を追って上京してきた)叔母の環も合流し、三人は旅をする。鈴芽の生まれ故郷の町にある後ろ戸を目指して、三人は北へと車を走らせるのだった。

ちなみに、草太の声は松村北斗くん、環の声は深津絵里さん。ここでNHK朝ドラ『カムカムエブリバディ』の親子コンビが出てくるところが、ちょっと心憎い。

ホームページからお借りしました。草太さん、美しい✨

最後は、妖怪大戦争のようなシーンが出てくるけど、闘いを終えて、無事にこの世に戻ってきた鈴芽は、「いってきます」と言って後ろ戸の扉を固く閉じる。
それは、過去の記憶を手放し、新しく生まれ変わった気持ちでこの世を生きていく鈴芽の覚悟の表れでもあった。

震災が起きたあの日の朝、たくさんの「いってきます」「いってらっしゃい」の言葉が交わされ、無事に帰ってくることを当たり前のように信じていた人々がたくさんいた。しかし、あの日の朝の「いってきます」が、現世から常世への旅立ちのあいさつになってしまったのである。

「いってきます」と言い、「おかえり」と迎える。
この当たり前の日常を、鈴芽はこの壮大な旅を乗り越えて、ようやく体得したのだった。そう、現世を生きる人々の愛と思いやりに包まれて。


『すすめの戸締り』を観て、私も、自分の中にある「過去の記憶」の扉を閉じて、新しい一歩を踏み出さなくては…と思った。そう、手放すのではなく、閉じるのだ。記憶は記憶として残しつつ、その世界はいったん閉じて、次のステップへ向かう。今はそのタイミングの時なのだ。

「おかえりなさい」
鈴芽のもとに戻ってきた草太にかけられたこの言葉は、草太だけでなく、この乱世を生き抜く全ての人々にかけられた愛の言葉だと感じた。

この映画、もう一回観てみたい。
何度でも観るたびに、新しい気づきが得られるはずだから。

何度でも何度でも、この気持ちをしっかり受け止めていきたい…と思った。

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