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【写真日記】海の京都を訪ねて⑦舞鶴へ

伊根町を散策した私たちは、この旅のしめくくりとして最後に「舞鶴」を訪れることにしました。

《前回のおはなし》


舞鶴へ

私たちは伊根町を出発し、一路舞鶴へと向かいました。

Googleマップより

途中「天橋立」がある宮津市を通り過ぎて、東方へと進み、舞鶴市に入りました。舞鶴の市街地を通り抜けて、舞鶴湾の方へ進み、「舞鶴引揚ひきあげ記念館」を目指しました。

舞鶴引揚記念館

①引揚の歴史と「岸壁の母」

舞鶴と言えば、かつて軍港であり、今は自衛隊の護衛船が停泊する港街です。

第二次世界大戦が終結した後、この舞鶴は、旧満州や朝鮮半島、旧ソ連からの引き揚げ者を受け入れる港となりました。民間人の引き揚げの他に、戦後まもなく旧ソ連軍に連行されてシベリアに抑留された軍人や軍属の人々の受け入れも始まり、多くの人々がこの港から日本に上陸し、帰国を果たしました。

昭和20年10月から始まった引揚船の受け入れですが、最後の引揚船が到着した昭和33年までの13年の間に、舞鶴に上陸した引揚者はおよそ66万人。
終戦の混乱の中、命からがら着の身着のままで帰国を目指し、大陸を大移動した人々の中には、道半ばで命を落とした方もたくさんいました。


そうした人々のことを思うと、生きて帰国できたことは、奇跡にも等しかったと言われています。

ここ舞鶴には、家族の帰国を待ちわびて、桟橋に立つ人の姿も多く見られたうです。その様子を歌にしたのが、歌謡曲「岸壁の母」です。

岸壁の母(がんぺきのはは)とは、第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船で引揚港の桟橋(岸壁)へ帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミが取り上げた呼称。その一人である端野いせをモデルとして流行歌(1954年など)、映画作品のタイトルともなった。
(中略)
ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景であったが、時間の経過とともに、毎回、同じような顔ぶれの人が桟橋の脇に立つ姿が見受けられるようになり、これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられ、たちまち有名になった。

Wikipedia「岸壁の母」より

満州からの引揚者やシベリア抑留について詳しく知りたい方は、里中満智子先生のこの漫画もおすすめです。

今回の「海の京都」旅の締めくくりに、私は舞鶴の引揚記念館に行ってみたいと思いました。

自分でも不思議だったんですが、衝動的に「ここに行かなきゃ」という気持ちになったんですよね。

夫は(最近ちょっとメンタルが落ち気味だったので…)あまり気が乗らなかったようですが、私に付き合って一緒に行ってくれることになりました。

②舞鶴引揚記念公園に到着

カーナビの指示に従って走行し、無事、引揚記念公園に到着しました。

駐車場にいくと、(平日だし、地味な施設だし、そんなにお客さんはいないんじゃないの?と思っていたら…)、意外と車が停まっていました。
お客さんは結構いらっしゃって、見ると、やはりご年配のお客さんが多いみたいです。
どうも私たちが一番年少者っぽい感じでした。

公園の中に記念館がありました。復元された引揚桟橋にも行ってみたかったけど、時間が押していたので、見学は記念館だけとなりました。
こちらが記念館の入口。


③引揚記念館を見学

中に入り、受付で入館料を支払って、展示室に入りました。

展示室内は写真撮影が禁止だったため、以下、テキスト&引用資料でご紹介します。

ここ舞鶴は、満州やシベリアからの引揚者が多かったこともあり、引揚者が満州から持ってきた物や、シベリア抑留時代の様子がわかる遺留品など、当時のことが生々しく伝わってくる内容でした。

終戦から78年が経っているにも関わらず、展示されている当時の物は、あまり劣化していないように感じました。大切に保存されていたのでしょう。

入った瞬間から、圧倒される内容です。

一つ一つ丁寧に見学していきました。

そんななか、満州からの引揚者(子ども)が背負っていたというカバンを見ていたら、あるご婦人が私たち夫婦に話しかけてきました。

小柄で品のあるおばあさんで、聞くと、この記念館で語り部をしていらっしゃる方でした。

「実は私は、満州からの引揚者なんですよ」

とのこと。

えっ!!!

まさか引揚体験者ご本人と直にお会いできるとは!非常に驚きました。

この女性(Kさん)は、昭和15年生まれで現在83歳。
終戦時は5歳でした。Kさんは当時、満州の奉天市に家族と共に住んでいました。奉天市は近代的な大都市で、今の東京銀座のような華やかな地区で裕福な暮らしをしていたそうです。

しかし、日本は敗戦。
家族に連れられ帰国の途に就き、日本への最初の引揚船となった雲仙丸に乗船。昭和20年10月7日、舞鶴港に到着。日本の地を踏みました。

「向こう(満州)では、お嬢様のようにして暮らしていたけど、日本に帰ってからは、お金が無くて生活が大変で本当に苦労しました」とKさん。

帰国後は舞鶴で育ち、やがて結婚・出産。長く家庭を守ってきましたが、数年前に主婦としての役目を終えて、念願だった「語り部」になろうと思い立ったそうです。しかし「自分に務まるだろうか」と自信がなかったため、同じ引揚者だった同級生の友達に相談したところ「自分も申し込むから、一緒にやろう」と励まされ、こうして語り部に就かれたそうです。

途中、そのKさんのお友達(一緒に語り部になったというお友達のMさん・とても80代には見えない元気なおじさん)も、私たちと合流しました。こうして、お二人からいろいろなお話を伺いました。

ちなみにMさんは朝鮮半島にいたそうで、終戦時はKさんと同じく5歳。当時は裕福で文化的な暮らしをしていたそうです。

「あの頃は、親父の仕事の関係で大きな屋敷に住んでいたんだよ。何不自由ないお坊ちゃんだったんだよね。ところが戦争に負けて、ソ連軍が朝鮮に進軍してきてね。家の中に勝手に入ってきて、金目のものを全部持っていくんだよ。殺ない代わりに、腕時計とかお金になるものを盗っていく。おふくろはソ連兵に見つからないように頭を丸めて、いつも隠れていてね。今でもあの時の様子を覚えている。怖かったよ」とMさん。

終戦後の混乱の中、無事に朝鮮半島を脱して、ここ舞鶴から日本に入国し、今に至る…とのこと。

KさんとMさんは、同じ引揚者で小中学校が一緒だったせいか、幼馴染の友人として仲良くしていらっしゃるようです。

「引揚」と聞くと、残酷で悲惨で哀しいイメージしかなかったのですが、KさんとMさんからお話を伺っていたら、全てが全て痛ましい記憶というわけではなく、こうして人生をたくましく切り拓かれて、今は明るく健やかに過ごしていらっしゃる方もいらっしゃるんだ…とわかり、心に光がさした思いがしました。
お二人ともまだ5歳と幼ったこともあり、大人たちに守られて帰国できたため、それほど苦しみを感じずにこられたのは幸いでした…と仰っていました。KさんもMさんも、感情的になることなく、史実と体験を絡めながら丁寧に温かく語ってくださる姿が印象的でした。

そうそう、お話の最中に、私たちが飛騨高山から来たことをお伝えしたら、お二人ともビックリしておられました。

Kさんは、以前何回か高山に観光で遊びに来たことがあり、とても懐かしがっていました。また、Mさんは飛騨市出身の知人がいるそうで、その知人の話をいろいろ聞かせてくださいました。(←ローカルネタがたくさん出てきてビックリ。面白かったです笑)

まさか、舞鶴で飛騨の話で盛り上がるとは…。なんだか不思議なご縁を感じました。

語り部さんからたっぷりお話を伺い、展示物をじっくり見学し、非常に有意義なひとときを過ごすことができました。ありがとうございました。

KさんMさんと別れて、ふと時計を見たら、もう14時を過ぎているではありませんか!話が盛り上がってしまい、時間が経つのを忘れていました。

実は、見学後に、この記念館内にあるカフェでお昼ご飯を食べるつもりだったんですが、時間がないのでスルーすることにしました。


赤れんが博物館

車に乗り込み、次に赤れんが博物館へと向かいました。

引揚記念館から赤レンガ博物館までの道のり(Googleマップ)

自衛隊の施設の横を走る道路を進み、約10くらいで舞鶴赤れんがパークに到着しました。

駐車場に車を停めて、赤れんが博物館を目指して歩きました。

公園に入ってすぐ目に入るのが舞鶴湾です。海上自衛隊の護衛船が停泊していました。

ウッドデッキに埋め込まれている碇。カッコいいなぁ。
奥の方にも自衛隊の船が見えます。
ここ舞鶴にも遊覧船があります。赤れんがパーク遊覧船乗り場から『港めぐり遊覧船』に乗ることができるんですよ。しかし、今回はタイムオーバーで泣く泣く諦めました。リベンジでまた訪れたい!

ここの遊覧船は、自衛隊の船が間近で見られるそうですよ。
今回の旅では、天橋立伊根でバッチリ船に乗れましたが、舞鶴は受付時間が過ぎていて乗れませんでした(残念)。
「今度また舞鶴を訪れる時は、もうちょっと時間に余裕を持ってきて笑、遊覧船に乗りたいね!」と夫と話しました。

さて、こちらが赤れんが博物館です。

赤れんが一号棟と呼ばれるこちらの建物。1903年(明治36年)に建てられた鉄骨レンガ造りの魚雷庫です。

中に入ると、世界の遺跡やレンガ造りの建物の紹介から始まり、日本のレンガ製造の歴史や日本各地にあるレンガ建築物の解説など、幅広く展示されていました。

ここでふと、東京駅や京都の琵琶湖疎水を思い出しました。
明治維新後、レンガを国内で大量生産し、レンガを用いた近代建築を全国各地で推し進めていった明治の人々の情熱とエネルギーはすごいなぁ!と思います。ここは洋館好きにおススメの施設でしたよ。

ところで、この時の私たちは、「赤れんが博物館の中か近くにカフェがあれば、そこで何か食べたいなぁ」と考えていましたが、中にも近くにもお店が見当たらなくて断念。

しかも帰路につく時間がかなり迫っていたので、ここで「海の京都」旅を閉じることにしました。

鯖フィッシュアンドチップス(おまけ)


私たちはまた車に乗り込み、舞鶴から舞鶴若狭自動車道に入り、北陸自動車道→名神自動車道→東海北陸自動車道のルートで高山市に帰りました。

しかし、舞鶴若狭自動車道ってパーキングエリアはあるんだけど、サービスエリアは全く無いんですね(泣)。

伊根のクリームブリュレ以降、何も食べていないので、つらい…。

あぁ腹が減った…。我慢できず、途中で高速道路を下りて、道の駅・若狭おばまに立ち寄りました。
道の駅でやっとこさ手に入れた温かい食料。鯖(さば)のフィッシュ&チップス。揚げたてで美味しかったです。

盛りだくさんで、あっという間の2日間。濃くてディープで「海」多めの楽しい旅でした。

おしまい

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