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人はどうして自分の「思い込み」や「固定観念」を他人に押しつけたがるのだろう

先日、知人と話をしていて、話の流れが『歯みがき』のことになり、私がふと自分の体験を交えて「歯列矯正でブラケットをつけていた時は、食事の後に必ず歯を磨かなきゃいけなくて大変だったよ。おやつを食べた後も、欠かさず歯を磨いてたし・・・・」という話をしたら、その知人は『歯みがき』ではなく、「私がおやつを食べる」という部分に食らいつき、

「えっ?Emikoさんもおやつ食べるの?へー。おやつ食べることがあるんだ~。」と言い出した。

私は、(何でそんなリアクションするの?)と不思議に思い、「え?何で?おやつくらい私も食べるよ。」と憮然として答えると、彼女は「ふーん、そうなんだ~。Emikoさんも普通におやつ食べるんだね・・・。」と含みのある言い方をしてきた。私は「はぁ?何言ってんだコイツ?」と口には出さなかったけど(汗)、心の中でそう思った。何だかモヤモヤした気分だった。

それでこの話題は終わりになり、私もこれ以上はつっこまなかったので違う話へと自然に流れていったけど、私はモヤモヤした感じを長いこと心の奥で味わっていた。

彼女は、私のことを「食事以外のもの(おやつ)は絶対に口にしない人」だと勝手に思い込んでたのかもしれない。だから、私が「おやつを食べる」と言ったとき、純真に驚いたのだろう。自分の思い込みと異なることを私が言ったから、予想外のことにビックリして、あの言葉が自然に出てきたのだと思う。

しかし、どうして私のことを勝手にそう思い込んでいたのか・・・私にはサッパリ分からない。だって、時々、近所のカフェにいく話もしていたし、どこのお菓子が美味しいという話も前にしていたのだ。にも関わらず、彼女は私に対するイメージを勝手に作り上げて、そのなかで「Emikoさんはおやつを食べない人」という虚像が固定化され、私のことをそういう風に認知していたのだ。

でも、あのとき、私が彼女の期待を壊すことを言ったとしても、「あっそうか、そういう一面を持っていたのか」とフラットに受け入れて、私に対するイメージを彼女の脳内でこっそり上書き更新してくれたら良かったのだ。会話の中で、そういう新しい一面を知ったのなら、それにいちいち噛みついて口や態度に出さなくても、素直にさらりと受け入れてくれればいいのに・・・と、私は思った。

でも、世の中には思考が固く頑固な人がいて、脳内にインプットしたものを自動更新していくことがなかなかできない人も多い。自分で勝手にイメージして妄想したことまでも「事実」だと信じてしまい、頭の中を軌道修正できない人もいる。

こういうのを世間一般では「固定観念」というのだろうけど、実は私は、子供の頃から、こうした「他人の固定観念」に随分振り回され悩まされてきた。

私のことをよく知らないのに、見た目で勝手に「Emikoさんはこういう人」と決めつけてくる人が多くて、それを私に押しつけて刷り込まされることが非常に多かったのだ。

まず最初が、私の母親。そして母の周りの大人達。

幼少の頃から、私の気持ちを聞くこと無く、私の見た目と様子とイメージで「Emikoはこういう子」と決めつけられ、勝手にいろんなものを押しつけられてきた。私は何が好きで何が嫌いか・・・を自覚する前に、母親が勝手に「Emikoの好きな物はこれ」「Emikoに似合う服はこれ」「Emikoが喜ぶことはこれ」と、いろんなものを押しつけてきて、私は何も考えずそれらを受け取るしか無かった。万が一、私が「母が与えようとするもの」に対して不満を告げると、母は「自分の愛」を拒絶されたとショックを受けて落ち込みいじけるので、後々面倒臭くなる。私は自分への被害を最小限に食い止めるために、また、母の愛が欲しくて、母の機嫌を損ねないよう、母が与えるものを全て受け入れなくてはいけなかった。

母方の親戚の人たちも同様で、子供の気持ちより、自分たちの満足のために「自分が良いと思うもの」をぐいぐい押しつけてくる人たちで、それを「ありがとう」と心から感謝し、ありがたく受け取ることが義務になっていた。感謝の気持ちもなく、むしろありがた迷惑なのに、「嫌だ」と感じることすら許されなかった。せっかくあなたのことを思って与えてくれるのに、それを感謝できないのは心が歪んでいるからだ・・・という理論を、また私に刷り込んで、刷り込んだ通りの反応を期待してくる。

要は、大人たちの提言や提示に対して、子供側は拒否も否定も一切許されない環境だった・・・ということだ。

そういう状況のなかで、私は自分のことがよく分からないまま、大人達の固定観念で作られた「私」を、これが私なんだと思い込んで生きてきた。

やがて、学校に通うようになると、今度は同級生たちの「固定観念」に振り回された。

私は中学時代は勉強が好きで、テストでは良い点数を取っていたのだけど、「勉強が好き=真面目で固くて優等生で雲の上の人」というイメージを勝手に作り、私を特別視してくることがよくあった。みんな中坊で子供で未熟だったから仕方がなかったと今は思うけど、当時は本当に嫌だった。私にも仲の良い友達はいたし、いじめは全く無かったけど、何かにつけて「Emikoさんはすごいよね。私たちとは違うよねー。さすがだねー。」という言葉を私に浴びせてくる人がいて、私は苦手だった。

そういう子達って、私がそういうことを言われて傷つかないと思っているのだろうか?そういう言葉を言うことで、私とその子達の間に大きな壁と溝が出来ていることに気づかないのだろうか?

あの頃の私は「勉強」が好きだった。でも当時の世の中は、のび太君みたいに勉強が出来ない子のことは擁護する風潮があったけど、勉強が出来る子のことは、皆が腫れ物に触るように接していた。当時の私は、人生の中で一番吸収力があるときであり、テストで高点数を取ることがゲームみたいで楽しかった。好きで楽しかったから、それに取り組んでいただけで、おそらく都会にいけば私のような子は普通にゴロゴロ居て珍しくも無かったと思う。でも、私がいた学区では珍しかったんだろう。勉強が好きということは、実はアイドルが好きとか電車が好きとか、このスポーツにはまっているとか、ゲームに夢中とか、そういうのと全く同じ感覚でしかない。だから、ただ単に勉強をしていただけで、あとは至って普通のコドモだった。なのに、どうして「ある一点」だけを見て、勝手に「あの人はこういう人だ」と決めつけてくるんだろう。・・・私は本当に不思議だった。

この頃から、私は目立ってしまう自分が嫌になり、高校に入ってからは勉強をしなくなった。中学時代の勢いで勉強していたら、きっと私の未来は大きく今と違っていたと思う。

でも、あの頃の私は、思春期特有の「こじらせ感」を募らせていて、人から何かを言われるのが嫌で堪らなくなり、目立たないように地味に、地味に・・・空気のような存在になることを目指して生きてきたのだ。

でも。そのまま生きてきたけど、さすがに40代になったら、もう「空気」で生きていくことに疲れ果ててしまった。自分から「目立つこと」を解禁した。人から何か言われて気にしない。人からどう思われても気にしない。自分の人生なんだから、他人の評価なんて気にしないで、自分のしたいことをやって、自分の好きなことをやって、自由に生きよう・・・と決意した。

とはいえ、私は何が好きで、何が嫌いで、本当は何をやりたいのか?・・・が、私の中から抜け落ちて何も無いことにハタと気がついた。

幼少期の「価値観の押しつけ」のせいで、私は自分のことがサッパリ分からなくなっていた。親から刷り込まれた「Emikoはこういう子」という親の固定観念が「私」だと思い込んでいた。

ならば、今からでも遅くないから、自分を取り戻していこう・・・と思い、いろんなことにチャレンジしたのだった。それが私の40代。自分探しの旅を続けた。この年で自分探しも恥ずかしいけど、何もしないよりはマシだ。このまま年老いて死ぬわけにはいかない。このまま死んだら後悔すると思った。だから、私は自分の魂を取り戻すつもりで、バラバラになった私の欠片を拾い集める「心の旅」をしたのだ。

こうして「自分」という人間の輪郭を、ある程度とらえることができ、私は昨年無事に50代を迎えた。

そして先日。知人に「へー!あなたって、おやつ食べる人だったんだー!」と言われて、昔のあの嫌な感覚をハッと思い出した。

そうそう、この感覚。モヤモヤしたのは、他人の「決めつけ」に振り回されて自由が無かった頃の、辛かった気持ち。すごくリアルに感じ取った。

私の真実や意見や気持ちは一切受け入れない代わりに、自分たちの決めつけや固定観念を「これが真実」と言わんばかりに私に注入しようとする・・・あの理不尽さ、不平等さ。あれを強烈に思い出したのだ。

そうか、私はそうとう腹が立ってたんだなぁ、そして、ものすごく傷ついていたんだなぁ・・・と、あの頃の私を慰めたくなった。

今の私は、図太いオバサンになったから(笑)、他人の「決めつけ」に対して、「はっ?何言ってんの?そういう言い方、私に対して失礼よ。なんだか嫌な気分だわ。」と正直にハッキリ言っちゃう。それに、素直に感じたことを私が言うことで、相手が自分の変な思い癖に気づいてくれればいいな・・・と思いつつ。

それで私から離れていけば、特に大事にすることもない、その程度の相手だということだ。

だけど、この「決めつけ」「固定観念」は、本当におそろしいものだと思う。人の感覚を麻痺させ、正しい判断を出来なくしてしまう。「決めつけ」が強いと物事をクリアに受け取ることができなくなるし、人や物事を自分の「固定観念」というフィルターで見ようとするから、どんどん現実からかけ離れ、真実から遠ざかったものを掴んでしまう。

今、日本の社会を見渡してみると、固定観念が生み出した「誤解」「誤認」が増えていて、そこから更に自分たちの誤解や誤認を正当化するために、「ねつ造」「フェイク」も次々と生み出されている。マスコミの情報も今では記者達の「思い込み」「決めつけ」「固定観念」を民衆に刷り込んで世論をコントロールするための道具に成り下がっている。本当に「何が真実で、何がガセなのか」がサッパリ分からない恐ろしい時代である。

世界はますます混乱を極めているけど、私自身は心静かに穏やかに暮らしたい。他人の「決めつけ」に屈して心が縛られないよう自分をしっかり持ち、また、他人の「固定観念」に巻き込まれないよう柔軟に対応・行動できる自分でありたい。物事をクリアに受け止め、常にオープンな心で自由に生きていきたい。

私は自分の固定観念からも人々の固定観念からも、どちらからも解放されて自由になる。先日の知人との会話は、それを自覚させてくれた出来事だった。

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