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22歳の旅路

先日、夫が同級生の友人たちと旅行に行き、四国・香川の金毘羅宮を参拝した。

この時、金毘羅宮では、1368段の石段を登りきった先にある奥社(厳魂神社)を目指してみんなで歩いたそうだけど、最後の奥社まで到達できたのは(夫も含めて)3人ほどで、残りの皆さんは足腰が痛くなったとか体力的にバテてしまったとかで、途中リタイヤされたらしい。

夫曰く「オレが一番だった」とのこと。

夫は毎日ウォーキングをしていて、いつも早歩きで1万歩ほど歩いて鍛えているから、延々と続く金毘羅さんの階段も軽々と登れたのだろう。ありがたいことに、疲れも痛みもなく、楽に参拝できたそうな。

実は私も、大学4年生の冬に、金毘羅宮を参拝している。

4年生の夏、新聞に掲載されていた某大企業のエッセイ募集を見つけて、副賞の旅行券欲しさに軽い気持ちで書いた作品を送ってみたところ、見事受賞。最優秀賞は逃したけど、上から2~3番目くらいの賞を受賞し5万円分の旅行券をいただいた。最優秀賞だったら30万円の旅行券だったと思う。もしもこれが当たれば海外旅行に行きたかったけど、5万円だったので国内旅行に狙いを定めて、まだ行ったことがない四国を旅することにしたのだった。

当時、瀬戸大橋ができてすぐの頃だったので、新幹線で名古屋から岡山へ行き、そこから(当時注目を浴びていた)瀬戸大橋を渡って四国入り。琴平で一泊。

時はバブル真っ盛りの頃。当時テレビで毎週放送していた2時間サスペンス劇場に出てきそうな、大きくて新しくて立派な旅館に宿泊した。女将さんがわざわざ部屋までご挨拶に来て下さり、料理も超豪華で、学生にはリッチな宿だった。

翌日、金毘羅宮を参拝した。
22歳と若かった私は、お山に登るというのにお洒落な革靴で行ってしまい、途中で足が痛くなって泣き泣き何とか奥社まで登ったのだった。

だから、金毘羅宮と聞くと、私は「足が痛くて大変だった」という記憶しかない。あと、奥社の静寂で厳かな雰囲気も、心に残っている。

香川と言えば「うどん」だけど、確かにうどんは美味しかった。

金毘羅宮を参拝した後は、隣の愛媛県へと向かい、道後温泉で一泊した。道後の温泉町をブラブラと歩き、伊予柑シャーベットに舌鼓を打ち、松山城を見学し、『坂の上の雲』の松山編の世界を少し味わってみた。

その後、伊予鉄道で各駅停車の電車に乗り、松山港に向かった。乗客が他に誰もいない静かな電車で、旅の疲れから席に座ってウトウトと眠っていたのだけど、某駅に電車が止まったところで、ふと目を覚まし、目の前で開いたドアの向こう側を見てビックリ!ホームのベンチに織田裕二が座っていた。当時大ヒットしていたドラマ『東京ラブストーリー』のロケをしていたようで、その休憩中だったのか、お付きの人と二人でリラックスして喋っている御姿が目に入った。
目の前にいる生カンチに驚き、慌てて「カメラ!カメラ!」とバッグの中をまさぐっているうちに、「ドアが閉まりまーす!」とアナウンスが入って、無情にもドアはプシューと閉扉。「ああああーーーー!」という私の絶叫を無視して電車は出発したのだった。

もしもあの時、あの場所で、私が電車から降りて織田裕二に声をかけていたら、その後の私の人生は少し変わっていたかもしれない…。なんてことはないか笑。

松山港に通着すると、広島行きの船に乗った。確か水中翼船だったと思う。移動手段としての船に乗るのはこれが初めてで、すごくワクワクした。
広島港に到着した後は、広島駅に移動して新幹線に乗車。そのまま名古屋へと帰ったのだった。

こうして私はきれいに5万円の旅行券を使い切り、初めての四国旅行を終えた。瀬戸内海を真ん中に置いて、ぐるりと一周するような旅だったけど、今思えば、これが私の人生の旅の出発点だったように思う。

あれから30年以上が経ち、街の風景も人々の様子も当時とはずいぶん変わってしまっただろうな。
また機会があれば、四国の瀬戸内沿いを旅してみたい。同じ旅程で同じ場所を巡ったら、自分の中でどんな反応が起きるのだろうか。それを想像するとワクワクする。何も起きないかもしれないけど、それはそれで面白そうだ。今の私なら、(まだお子ちゃまだった)22歳の私には見抜けなかったこと&気づけなかったことに、数多く出会えるような気がする。
旅は人生経験を積むための格好の素材ではあるけど、逆に、これまでの人生経験があるからこそ、より旅を深く楽しむことができるのかもしれない。

…とまぁそんなことを、夫の土産話を聞いてあれこれ思ったのだった。


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