嫉妬しても誰も幸せにはならない

以前、親しくしていた人から嫉妬されたことがある。

それは、明るい表情で「いいなぁ~羨ましいわぁ~!」と私に言ってくるような軽いものではなく、「はぁ?どうしてお前なの?」という怒りと恨みが籠もったドス黒い嫉妬だった。

この瞬間のこの人の顔が、今も忘れられない。

軽くうつむいているが、表情は固く強ばり、目は一点を見つめて冷たく光っていて、身体全身から怒りを放っていることが、傍目からもよく分かった。

私は、しまった・・・と思った。見てはいけないものを見てしまったような、後ろめたい気持ちがした。

その後、この人は、私よりも自分の方が有能で素晴しいことを周囲の人たちに言い放ち、私よりも自分の方がランクは上なんだ、自分の方が上等の人間なのだ・・・と断言して、私の元から去って行った。

この時、淋しいとか悲しいというより、「この人との繋がりはここで切って終わりにしよう。これは、そういうタイミングが来たという合図なんだ。」・・・と感じた。

それ以降、私からもこの人との繋がりを断ち、お互いに別々の世界を生きることにして今に至っている。

生きていると、いろんな感情に出くわす。自分の感情だけでなく、他者の感情をぶつけられたり、擦り付けられるときもある。

でも、あまり気にしない方が良い・・・と私は思う。

というのも、他人の感情はその人自身の持ち物であり、私には何の責任もないからだ。

どんな感情を持とうと、その人の自由。

でも、自分の感情の始末は「自分がする」こと。自分の感情の責任は「自分が背負う」こと。これが大切。

あの人は、自分の嫉妬という感情を、私のせいにしようとしたけど、いや、あれはあの人の持ち物だから、私には関係ない。

むしろ、あの時、嫉妬心を剥き出した勢いで「私との縁を切りたい」と周囲に豪語したあの人のために、私はあの人から離れることにした。あの人が言った言葉がそのまま叶うように・・・。ケンカもせず、感情も濁さず、私は静かにフェードアウトした。

感情のまま言い放った言葉であっても、そこには一生、責任が付きまとう。

娑婆とはそういうものだ。

嫉妬の感情を向けられたとき、しみじみ感じることは、「この人は、私の能力や才能を全然認めていなかったんだなぁ・・・」ということ。

まず、人としてリスペクトしていない。自分より下だと思っている。そんな「見下している相手」がちょっと抜きん出ると、嫉妬心が出てきて、メラメラと怒りが沸いてくる。

それも、私が自分の力を発揮した時に、また、相手の活躍の場が削がれたとき、相手の嫉妬心に火が付くのだ。

それまでも、何となく「この人はプライドが高い人だ」と察知していたから、相手のプライドを傷つけないよう、実は裏で結構気を遣っていた。相手のワガママな理論にも、器の大きさでカバーしてきた。

でも、相手への気遣いができない状況の時に、ぽろっと私の力を出してしまった瞬間、相手の導火線に火が付いたのだ。そこから嫉妬心が破裂してしまったのだ。

今振り返ると、つまりは、最初から関係性が対等ではなかった。

あの人を上にしてあげないと釣り合わない関係だった。

だから、結果的にこうなっちゃったんだ・・・と思う。もともとバランスが悪かったのだから、壊れてしまったのは当然の成りゆきだった。

そこで、ふと、不健康でドス黒い「嫉妬心」の代わりになる、なにか健全で明るい感情は他にないだろうか?・・・と考えてみる。

結果、思いついたのは、「ライバル精神」

スポ根ドラマやアニメで出てくる、あの感情である。感情というより「精神」だから、心の持ち方と言ったほうが良いのだろうか。

嫉妬だと「相手を蹴倒してやる」という憎しみが先に出るけど、ライバル精神ならば、相手の才能や能力を認めた上で、相手に勝つためにひたすら精進しなくてはいけない。相手の良さをリスペクトしつつ、自分を磨くための努力もセットになっている。

「嫉妬」と「ライバル視」・・・自分に向けられるのなら、どっちがいい?と問われたら、私は「ライバル視」の方だなぁ。私を目標にして日々精進していると聞かされたら、嬉しくてありがたい気持ちになるし、私も負けないよう努力しようとやる気も出る。お互いにとって、これは効果大だ。

「私に嫉妬するんじゃなくて、ライバル視してほしかったなぁ・・・」と、あの時のことを思い浮かべて、そう思う。

ライバルとして見てくれたのなら、私も嫌な気持ちにならなかったし、縁を切らなくても済んだのだ。

でも、それが出来なかった。

あれは分岐点だった。

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