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【本当の私を生きる31日間プログラム】Day30「好かれること」

今日はいよいよDay30に取り組みます。

残りは次回のDay31を残すのみ。もうここまで来ちゃいました。あと一回終わっちゃうのかと思うと、本当に淋しいです…(´;ω;`)ウゥゥ

・・・ということで、今日も力が入りまくり(汗)、超大作になっちゃいました。どうぞ最後までお付き合いくださいませ~。

Day30のテーマ「好かれること」について

それでは最初に、このプログラムの主催者Yumiさんのお題note。

今回は「引用は無し」です。ぜひYumiさんの記事をお読みくださいませ~✨

今日の質問は、以下の4つです。

①あなたは、人から好かれることや人の厚意を受けとることに抵抗を感じますか?

②お互いに好きだな、と感じられる関係性を築けている方はいますか?

③好かれると聞くとどのように感じますか?

④好かれることを、受け入れますか?

では、さっそく答えていきますね~。

①あなたは、人から好かれることや人の厚意を受けとることに抵抗を感じますか?

昔はすごく感じていました。

子供時代から30代にかけての私は、人から好意を向けられても、「この人は私を利用するために、私に近づいてきたんだ」とか、「今は私に好意を向けているけど、そのうち私に愛想を尽かして去って行くはず」と心の奥でそう思っていました。

どうしてそんなことを思うようになったのか?・・・昔を振り返ったとき、いつも甦るのは「幼い私に言った母の一言」です。

あれは私が小学一年生のときでした。学校での授業中、隣の席の男の子が、私に「貸して!」と言って、よく私の机の上の消しゴムをホイホイと使っていました。私は特に嫌でも無かったので「いいよ~」と言って貸していました。そんな子供の遊びのようなやりとりを、家に帰って母に話したのです。

私はただ単純に、気軽に「貸して~」と声をかけてもらえたことが嬉しかったし、向こうも私に話しかけやすかったから気楽に頼んできたと思うし、性別に関係なく友達として仲良くしたかったし、お互いにとても純真な気持ちでした。それでついつい、学校の様子を聞いてきた母に、その男の子のことを説明して「あの子は私にしか『消しゴムを貸して』って言わないんやよ。私って人気者なのかもw」と話したのです。楽しい話の1つとして・・・。

ところが、私の話を聞いた母は、キツく顔を曇らせて、

「はぁ? それのどこが人気者なの? それってただ利用されているだけじゃないの。お前はそんなこともわからなかったの? 本当にバカやなぁ。そんなのは友達でも何でも無いわ。それなのに調子に乗って人気者やなんて喜んで・・・。みっともない。」

と私に強く言い、「これからは貸してと頼まれても、ハッキリ断りなさい。」「そんな忘れ物をするような子に貸すために、お前に消しゴムを買い与えたんじゃない。よく考えなさい。」「そんな関係を友達だと勘違いして恥ずかしいと思いなさい。」と、厳しく叱責しました。

もしかしたら母なりに何かを感じて、アドバイスのつもりで言ったのかもしれません。当時の母はまだ若かった上に、生真面目で四角四面なところがあったので、自然とキツい言い方になったのかもしれません・・・。でも、それは小学一年生の小さな女の子に言うべき言葉ではありませんでした。子供心に私は深く傷つきました。

この出来事は、私にとっては強烈な体験で、今も鮮明に覚えています。オセロの白が黒にひっくり返ったように、私の中で「好意」が「悪意」へ、「善意」は「偽善」へと真逆に変化したのです。目の前の世界観も、今までとは真逆の世界に大きくひっくり返って見えました。

この時、私は「また同じ失敗を繰り返して、それが母に知られたら、私は「やっぱりこの子はバカだ」と母に愛想を尽かされて、心底嫌われるだろう。そうなったら私はもう生きていけなくなる。」と瞬時に思いました。そして「もう人に利用されないように注意しなくてはいけない。」と固く肝に命じました。この体験以降、私は他人のことを「私を利用するために近寄った奴かもしれない。有頂天にならないよう気をつけよう。」と気を付けるようになったのです。

一人で生きていけない幼い子供には、親が放つ言葉は、(それがたとえ、うっかり放った軽い意味の言葉であったとしても)簡単に凶器になります。たかが子供同士の消しゴムの貸し借りの話で、笑って聞き流してくれれば私も忘れてしまったであろう・・・そんな幼いエピソードで終わるはずだったのです。ところが、母の偏屈な解釈のお陰で「大人の汚れた思惑」が私の中に入り込み、「私は利用される存在なんだ」と強く刷り込まれたのです。

私はこの時、生まれて初めて「人から良いように利用される」「人を巧みに利用する」という価値観があることを知りました。小学校に入ったばかりの6歳の春に、自分の母親から無理やり仕込まれたのです。

おそらく今の母は「えっ?そんなこと、本当に私が言ったの?」とケロッと忘れていると思います。全然覚えていないでしょう。だから余計に罪が重いんですよね・・・。でも、あの母の一言で、私の存在価値そのものも根底から大きく覆りました。私は人から「好かれる」んじゃなくて「利用される」存在なんだなぁ・・・と。

こうやって、何気ない大人の一言によって、柔らかくて純白な子供のハートに黒いシミが点々と付けられていくんですね。大人は子供と話すときは重々気を付けなくていけないと思います。

ですので、子供時代から青年期にかけて、親から完全に自立するまでの間、私は人の好意が素直に受け取れませんでした。

また、「利用されている」という受け止め方の他に、「好意の裏には私への期待がある。好意を受け取ったら、その御礼に、相手の期待に応えてあげなくてはいけない。」…という思考も強くありました。これも母からの影響だと思います。
「子供を産み育てるのは、将来自分の老後の面倒を見てもらうためであり、子供は老後の保険だ。」と、母は幼い子供の私の前でよく話していました。私は母の横でずっとそう聞かされてきました。母のそういう価値観に触れる度に、私は「親の愛情は、老後の面倒を見てもらうための保険の掛け金みたいなものなんだな…。愛を受け取ったら、その分をしっかり返さなければいけないんだ。」と感じるようになりました。

(この件については、40代の時、私は正直に「申し訳ないけど私は親の老後の面倒を見るために生まれた訳ではないので、自分の老後は自分で何とかしてほしい。」と伝えました。
どうしようもなくなったら支援はするけど、最初から私をあてにしないでほしい。それより精神的に自立して自分の人生を生きて欲しい…と。)

今の私は、こう思います。

期待を寄せることは、愛ではない。
期待に応えることも愛ではない。
また、利用するとか、しないとか。
そういう思考そのものに、愛はない。
それらは全て利害関係であり、愛のある関係ではない。
見返りを求めて期待を寄せることも、利用価値があるかどうかを考えることも、損得勘定で近づくことも、それらは「好意」とは言わない。「依存」である。


昭和生まれの古い人達は、上に挙げたような価値観を持っている人が多いです。期待をかけたり世話をすることが「好意」であり「愛」だと刷り込まれて育てられてきたから、みんなそれが当たり前で普通だと信じています。「結婚して子供を持つことは、自分の老後の保険だ」という価値観も、母だけで無く、当時の大人達の常識で、みんな普通に口にしていました。子世代に期待を寄せて世話を焼いて、その代償に今度は自分の世話をしてもらうのだ・・・と。それが義務であり責任だと言われてきました。
それをキチンとこなしていくことが、「好意の示し方」であり「愛のかたち」でした。
おそらく母も、親からそう言われて育てられてきたのだろうと思います。昔の世間一般の常識から「これが当たり前」だと普通に思っていて、私にも何の抵抗もなくただ口にして言っていただけだと思います。

でも、それを受け止めるには、私はまだ幼すぎました。自分の中で消化できず、そのまま飲み込んでしまったのです。

これ以降、「好意」を向けられても、「利用価値がなくなったら、この人は私から離れていくんじゃないか」と感じ、素直に喜ぶことができませんでした。

また、「好意」の気持ちを言葉で伝えられても、「この言葉を素直に受け取ったら、私はこの人の期待に一生応えなくてはいけなくなる。この人から受けた好意と同じ量のことを、私はこの人に返していかなくてはいけない。」と思い、そこまで頑張れる自信が無くて、私は怖くて受け取れませんでした。

自己肯定感の低さから、こうした「呪いの言葉」にいつまでも縛られて身動きが取れなくなっていました。

そこで、40代の時に「自分を取り戻す」ための取り組みを始めたのです。最初は「自分は何が好きで、何が嫌いか」もサッパリ分からなかった私。そんな私でも、「私は何が好きなのか?」を見つけていくことで、だんだんと自分を取り戻していきました。

お陰様で、今は「私はこれが好き」と堂々と言えるようになりました。でも、私の「好き」はとても流動的でコロコロ変化していくので、その度に「新しい好き」を発見していくようにしています。

こうして自分の「好き」がわかってきて、「本当の好意とはどういうことか」が分かってきたら、他人の「好き」もそのまま尊重できるようになり、他人からの好意も素直に受け取れるようになりました。

「本当の好き」「本物の好意」とは、見返りも期待も一切無く、ただ純真に「好き」という気持ち、そのものなんですよね~。例えば「せっかく好意を投げ与えてあげたのに、相手から何のお返しもなかった。送った好意の分の返礼が相手から返ってこなかった」という理由で、相手を嫌ったり、怒ったり、憎んだり、罵ったり、悪口を言いふらしたり、避けて孤立させたり等・・・それは「好意」でも「好き」でも無い、好きとは全く異なる感情から来るものだ・・・ということです。

つまり、「好き」とは「ただ感じる」「ただ伝える」・・・それだけなのですよ。愛に似ています。

でも「好意」は「愛」よりちょっと軽めで、とても流動的です。打算も裏も下心もなく、ただ純真に「好き」と感じるだけであり、感じたことをただ伝えるだけの、とてもピュアで明るい気持ちです。一点の曇りも汚れもありません。

だから、そこに変な重みや意味を付け加える必要はなく、とても純真なのです。スマートに受け取って「ありがとう」と軽く御礼をする。それだけで良いのです。これが「好意」の流儀。noteの「スキ」に似ています。

昔は苦手だった「好かれる」ことも、今は嬉しい気持ちで感謝して受け取っています。

でも、たまに昔の価値観そのままで、「こっちは世話してあげたんだから、逆に私の言うことを聞きなさい」と絡んでくる人もいますが、そういう相手でも、私は私流の「好き」の作法を貫いています。

②お互いに好きだな、と感じられる関係性を築けている方はいますか?

はい。夫と息子ですね~。

息子は「うざいオカン」と思っているかもしれませんが(汗)、他の世間のお母さん方と違って、成人した息子の世話は全然焼かないし、息子に依存して縛り付けるようなことは全くしていないし、人として信頼しているし、良い距離感を保っていると思います。

夫は家族であり、パートナーであり、大切な私の親友です。

③好かれると聞くとどのように感じますか?

以前の私は、「好かれる」ことはとても大きなストレスで、精神的に拘束されるような気がしてあまり嬉しく無かったのですが(汗)、今は素直に嬉しいです。「私の良さに気づいて気に入ってくれてありがとう」という気持ちです。

ただ、そこから変な期待を寄せられたり、異常なほど粘着して執着されたり、やたらと「好意」という名の干渉やお節介をされるのは嫌なので、特にご年配の方からの好意に対しては気をつけるよう心がけています。(若い子達はサラッとしていてドライなので精神的に楽だけど、ご年配者はベッタリ貼り付いてくるようなウェットな付き合い方を好まれるので、ちょっと苦手かもです💦)

この「好意」と「期待の押しつけ」の境目がよく分かっていない人&境界線が曖昧な人が世間にはまだまだ多いなぁと思います。ですので、ただ相手を嫌って避けるのでは無く、逆に、親しき仲にも礼儀ありで「どんな人間関係にも境界線が必ずある」ことを知ってもらうよう、私の方でもキチンと線を引いて、互いに尊重し合うことを心がけています。(口で言って説明するより、そういうあり方を実践して見せていくことが効果的かな、と思います。)

好意の持ち方・伝え方に、その人の人生観や価値観が色濃く表れてきますね~。

どうせなら気持ちよく「好意」の受け渡しがしたいので、時には相手と腹を割って「どういう付き合い方が心地よいのか」をちゃんと話し合うことも必要だなぁ~と思います。

正直なコミュニケーションができる相手に好かれたいし、私もそういう人が好きです。裏表が無い自由な関係が築ける人と、サッパリした付き合いができるといいなぁ~と思います。

④好かれることを、受け入れますか?

はい。受け入れます。

また私自身も誰かに好意を感じたら、素直にその気持ちを受け止めて、ちゃんと相手に伝えていくよう心がけたいです。

好かれることに抵抗があった時代は、人に好意を伝えていくことにも抵抗がありました。

でも、過去の刷り込みを手放して、心を自由に解放したので、「好かれること」「好きになること」も自由に受けとめ、交流していきたいと思います。


最後に

今回も長くなってしまいました(汗)。

でも記念すべき30回目の本日、しっかり深くえぐるような内容のものを書けて、とても良かったです。これで、もう思い残すことはありません(汗)。過去の私が成仏していくのを感じました(笑)。

奇しくも今日は満月。内面の深い部分をえぐった記事がガッツリ書けたことで、何だか私のハラの深い部分にまで美しい満月の光が差し込み、過去の記憶やトラウマがきれいに浄化されていくような・・・そんな清々しい気分です。

今日も、この壮大な「自分語り」の記事を最後まで読んで下さり、ありがとうございました。下の「♡スキ」を押して頂けると嬉しいです。

いよいよ次回はフィニッシュの31日目。

明日もどうぞお付き合いくださいませ~。


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