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「赤毛のアン」のラストシーンの言葉

私は「赤毛のアン」が大好きです。
村岡花子さん翻訳の「赤毛のアン」シリーズも全て読んでいます。
しかし、一番好きな「赤毛のアン」は日本アニメーションのアニメ「赤毛のアン」です。

アニメ「赤毛のアン」のミュージックCDを衝動買して、それを聞きながら、なんとなくnoteを開いています。

アニメ「赤毛のアン」は、NHKの大河ドラマのように、毎年、一年かけて、名作をアニメ化して放送するという「世界名作劇場」という枠組みで放送されていました。
この枠組で「アルプスの少女ハイジ」や「フランダースの犬」「母を訪ねて三千里」などが作られています。

「母を訪ねて三千里」は、クオレ(クオーレ)という小説のほんの一部をアニメ化したもので、完全に高畑ワールド炸裂。。。という話はまた別の機会があれば。

作成していたのは「日本アニメーション」というアニメ制作会社。この頃の日本アニメーションには高畑勲さん、宮崎駿さんがいて、「赤毛のアン」の監督は高畑勲さんがされ、場面設定には宮崎駿さん(1話~15話まで。「カリオストロの城」に参加するために降板)がいました。

画像1(「月間絵本別冊アニメーション」昭和54年すばる書房から発行)


「赤毛のアン」は、ほぼ原作(神山妙子訳 版(旺文社文庫、新学社文庫))に忠実で、制作陣がプリンスエドワード島に取材にも行っているので、その風景、世界観は本当に素晴らしく完璧です。

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主題歌(OP, EDとも)は三善晃さん、作品中のBGMは三善さんのお弟子さんの毛利 蔵人(もうり くろうど)さん(毛利さんはガンで早くに亡くなられているのが非常に残念です)。
音楽が作品の世界観を広げているのは私が言うまでもありません。

そこへ、高畑ワールドが加わるのですから、申し分のない作品になっています。私の中では、このアニメが 映像としての“完璧な「赤毛のアン」” なので、その後、どんな映画を見ても満足しなくなってしまっているほどです。

月刊絵本別冊アニメーション1月号(昭和54年1月発行)で、高畑勲さんはこう話されています。

「ストーリーにドラマチックな展開があるわけじゃない。どっちかというときわめて淡々とした日常的なお話ですよ。しかしその中で、思春期の少女が、生きていく上で何を感じ、何を悩み、何を喜んだのか、克明に描かれています。そしてその描き方も独特のユーモアをもっています。しかも、つきなみな表現ではないんです。このあたりが、この原作の一番の魅力だと思いますね」(p33)

「アンについて新解釈をしてみても仕方ない。それよりも原作の持っている魅力を、間違いなくしっかりとらえていく。アンの悩み、喜び、生き生きとした人間性を原作にのっとって表現していく。そしてアニメーションですから、当然そこには美しい絵と美しい音楽があるわけです。こういう考え方に集中してつくっていきたい」(p34)

本当に素晴らしいアニメーションに仕上がっていると思っています。

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おっと、調べればわかるようなことをタラタラ書くために、久々にNotesを開いたわけではありませんでした(笑)
オタク魂がうずいてしまったようです。


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「神は天にいまし すべて世は事もなし」
原作もアニメもこの言葉をアンがそっとささやくところで終わっています。

孤児として辛い生活をしてきたアン。
マシューやマリラとの出会い。

その後訪れた
マシューの死。
マリラ失明寸前。
奨学金を得たけれど、進学を諦めるアン。

「神様、どうして私ばかりがこんな目にあうのですか?」と嘆くことは簡単です。
しかし、その時その時の今をアンなりに受け止め、引き受け、乗り越え、強く穏やかに生きていくアン。
様々な喜怒哀楽、出来事、それらを全肯定し、明日を信じて進んでいくアンの強さ。

もちろん、素敵で穏やかな喜怒哀楽に満ち溢れたアンの世界は、原作では「アンの青春」「アンの愛情」……と、まだまだ続いていますが、子どもたちに夢を与える「世界名作劇場」として、その続きにまで手を出さずにここで終わらせていることは本当に素晴らしいなと思ったりしています。

「神は天にいまし すべて世は事もなし」

この言葉はいろいろな解釈がいろいろな人達によってされているようです。
「神」という言葉が出てくると、ん?なんか宗教臭い、と拒否反応が出てくる人もいるかもしれません。

しかし、私は、アンの中のこの神にはマシューも含まれている。そんな風に思ってみたりします。

神や自分の大切な人達が見守ってくれている。
いろんなことが人生には起きるけれど、今を懸命に生きていこう。

アンの人生を受け止める力、明日を信じる力 に本を読んだ時以上にアニメで感激したことを覚えています。


話がそれてしまいますが。

ある日、電話相談で、「毒親である高齢の母親が死んだ。母のお墓に手を合わせられない自分が怖い」という話をされた方がいました。
「許しなさい。いつまでも親を恨むなといろいろな本に書いていて、それはわかるのだけれど、どうしても母親のお墓に手を合わせられないのです」と。

その時、私はこんなふうに答えました。(前置きとして、まず言いたいのは、私は決して宗教家でもありませんし、特定の宗教を持っているわけでも、スピリチャル系でもありません、ということ)

確かにそうですね、つらい思いをされてきたのだから、そのお気持ちはすごくわかる。
ただ、この世で、母やパートナーが毒親やモラハラであったということは、その人自身の問題であり、その人がこの世で選んだ生き方です。あなたが引き受ける必要のないこと。

人が死ぬと「天に召される」という言葉があるように、皆「仏様」になって天上の人となる。現世での執着やモラハラ気質など、全てこの世に置いていき、天では、やっと丸裸の心で過ごすことができるのだと思ったりしています。やっとです。
お母様自身も、やっと自分でも気づけなかった色々から開放されているのでしょう。
お母さんが置いていったお母様自身の執着やモラハラに縛られないで、やっと親として、自分を見守ってくれる存在になったのだなあと思ってみたらどうでしょう。現世でのあなたのことはやっぱり許せないけれど、これからは見守っていてね、と。
現世のお母さんを手放してみて下さい、と。

そういいながら、私はまた、赤毛のアンの中の一節
「神は天にいまし すべて世は事もなし」
を思い出していました。

人生には、いろいろなことが起きるけれど、その色々を私なりに受け止めて、明日を信じる力を忘れないでいたいなと思う私です。

【参考】
ロバート・ブラウニングのの劇詩「ピッバが通る」の中にある、「春の朝」(はるのあした)という詩の一節です。

時は春、
日は朝(あした)、
朝は七時(ななとき)、
片岡に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。




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