読書が好きである。

読書が好きである。

月に10冊から15冊ほど本を読む。1年間で約150冊。それを数十年続けると(年齢は教えない)私の頭の中の本棚には数千を超える本が入っていてることになる。

本で心踊らないことはない。嫌いな本はない。読まない本はあるけれど。

でも最近の本の全体的に見られる傾向として、物語というよりもただの名言の羅列のように思える本が実に多い。びっくりする。読んでいてたまに、私は物語を読んでいるのかそれとも名言集を読んでいるのかわからなくなるような有様である。

そんな時久しぶりにシュリンクの『朗読者』を読みたくなった。戦後のドイツで、ユダヤ人迫害の裁判にかけられた女性の物語である。私はこの本が大好きで、ことあるごとに読んでいるのだが今回読み返して、ふとあることに気がついた。

名言は平べったい文章の中からぽっと浮き出るようなものだからこそ、それが名言だと認識できるのだ。いや、わざわざ名言と表現しなくても良い。心を打つ文章は人それぞれで、でもなぜ人は文章に心が打たれるのかと言うと心を打つ文章のまわに心を打たない文章があるからこそ、その一文が輝いて見えるのではないだろうか。

これは学校の国語教育でよく感じていた事なのだが、学校で小説を扱う場合一番いいところと呼ばれる部分を抜粋して教科書に載せられていることが多い。よくあるのは夏目漱石の『こころ』で、私も学校でやった。授業中不思議でたまらなかった。なぜ一番最後の手紙が、最重要部分として取り上げられているのだろう?

なぜなら私は夏目漱石の『こころ』は既に読んでいた。読んだことがあるのは私だけだったが、それが更に私の不思議を増やしていった。

クラスメート達はなぜ『こころ』を読んだことがないのに、今読んでいるこの手紙の部分が最重要部分とわかるのだろう。納得できるのだろう。

さっきの心を打つ文章と同じで最重要部分というのは人によって違うものなのだ。私は『こころ』を読んで、最後の手紙の部分を付け足しのように感じていたし、それが重要だと思ったことはなかった。なのにそれを学校でわざわざ学ぶ意味が分からなかった。そして読んだこともない人が、この部分は重要なのだと納得して学んでいることが信じられなかった。

この教科書のいいとこ取り精神というものが、現代小説において、名言の羅列の小説ばかりが繁栄するという結果に結びついているのだと思う。

読者たちは学校の教科書で学んでしまったのだ。いいとこどりをすれば読んだ気になれる。得である。いいところ=名言である。名言を読むと本を読んだ気になれる。

こうして無駄に名言集のようなものばかりが本棚に並ぶようになる。

でも不思議に思わないだろうか。名言ではないものを知っているからこそ、それが名言だと気づくのだ。最初っからこれが名言だと提示されたものに何の意味があるだろう。

私は読書が好きである。それは一種の宝探しに似ている。平坦な文章を読み進めていくと必ずどこかで心に引っかかる一文がある。自分で見つけた、宝の言葉である。

その文章だけを抜いてみても、他人に話してみても、なぜ心に残るのか、なぜ宝なのか共感してもらえない、わかってもらえない。その一文は一つでは意味を持たないものなのだ。平坦な文章に囲まれているからこそ、そのたった一文が輝き始める。

学校教育の読書は読書と言えるのだろうか。名言のようなものだらけで書かれた小説を読んで、それは読書なのだろうか。定義としては読書なのかもしれない。でも私はその行為に宝探しという大切なものを見落としてしまっている気がする。

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