アク取りが好きである。

アク取りが好きである。

料理をするのなら、焼くよりも煮ることが好きで、煮るよりもお鍋やスープ、たっぷりの水の中に食材をどんと入れて火にかけることが好きである。

料理とは、ほぼアク取りのことだと思っている。

沸騰した水に食材を入れる。蓋を閉じる。束の間の読書を楽しんだ後、蓋を開けると目にしみるような湯気の中に食材が震えていて、その振動の間から生まれては消えていく泡がある。生まれたと思ったら消える。また泡が上がってきた、と思ったら消える。

その泡の一生を見ていると、なかなか消えてくれない泡がある。小さくなってスクラムを組み、もうどうしても溶け出さないような、そんな泡がある。死なない泡。それがアクである。

私は神様にでもなったような気持ちで、そのアクを取り除いていく。

アクの一番いいところは、おたまですくって取り皿に移しても、アクはアクのままでいてくれることである。消えもしないし、溶けもしない。別のものを生んでしまうこともない。取り皿とまたスクラムを組もうとして、なかなか流れない。そんな生き方までアクのままなのがいい。

アクを取っていると、不思議に思うことがある。

この食材たちの本物の部分はスープとアク、どちらなのだろう。

私はアク取りが好きだ。料理じゃなくても、アク取りが好きだ。自分の話す言葉でもぶくぶくした泡のようなものは綺麗に取って、透明のスープを発信したいと思っている。行動も、どろっとしたものを取り除いて、生まれては消えるくらい滑らかなものが、私の関節を動かしてくれればいいと思っている。人付き合いもそうだ。すぐにスクラムを組むような関係ではなくて、個人として泡になれるような、パチンと弾けてまたお互い水に戻れるような、そんな関係がいいと思っている。

私はそのためにいつもアク取りをしている。でも時々、アクを取った小皿の方が、本当の自分ではないかと思うことがある。

ある日思い立って小皿に取ったアクを飲んで見たことがある。飲めたものじゃなかった。アクは喉とスクラムを組もうとして、いくら水を飲んでもなかなか流れてくれなかった。

誰かに自分を知ってもらう時、こんな風に人は人を記憶に残すのだと思った。取りそびれたアクが誰かの喉に少しだけ引っかかって、動くことを抵抗する。「なんだろうこの引っかかりは」。きっと飲んだ人は気になって仕方なくなる。「ああ、これはあの人のアクか」。気づいた瞬間が記憶する瞬間である。

アク取りをしすぎると栄養がなくなると言う。食材の旨みを失うという。

私は私自身のアクを取ることで、誰の喉にも残らない人間になりかけているのかもしれない。自分の旨みまで、すくって捨ててしまっているのかもしれない。

アク取りはほどほどにしたい。

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