消えかけている白線が好きである。

消えかけている白線が好きである。

この世の美しいものには全て名前があると言う 。消えかけている白線にも名前があるのだろうか。それがわからなくてもどかしい。

道を歩いていると白線を目で追ってしまう癖がある。

小さい頃、「白い線の内側を歩きなさい」と言われていた。私は白線から出ないように、いつも注意深く足元を見ていた。消えかけている白線を見つけると、そこから自分がとろとろと外へ流れ出てしまう気がして、ぎゅっと自分のどこかを握ることでこの境界線を乗り切ろうと思っていた。

消えかけている白線には、あるはずのない印がある。

見えるはずのない誰かの足が、そこを何度も擦った記憶を見ることができる。通っていない車のタイヤが、白線の白いインクを拭い取っていた形跡がある。時折、絆創膏のように濃くなっている白線に出会うと、そこに何かの工事の跡を見る。白線のひび割れには、地球の地盤が動いたと言う壮大な物語も刻まれているのかもしれないと思う。

消えかけている白線を見ていると、不思議に思うことがある。

一本の白線で、大きなものを区切っているのだとしたら、こんなに脆いのはどうしてだろう。このたった一本が、人の生死をわけるのかもしれない。わけないのかもしれない。確証もないのに堂々と書かれていて、消えていくのをただ放っておくのは、どうしてだろう。本当に必要ならば誰かが書き足すだろうし、要らないものならば最初から書かなければ良い。どっちつかずのそれが、私の足元の保証を担っているのだ。

でも、消えかけているからこそ好きである。消えかけているということは、まだ消えていないということで、その申し訳程度の存在感が好きである。

白線からはみ出て歩いても大丈夫だ、ということを知った時、私は少し大人になった。消えかけているその境界線を、用心して歩かなくてもいいんだと知った時、誰にも手を引かれずに歩いて行かなければならないと知った。そうだ、私が白線の内側を歩くために、いつも誰かが私の横で白線の外側を歩いていた。白線の向こう側はサメが周遊する海のようだった。消えかけている白線は、私と海を繋いでくれた。

どこかで消えかけている白線がある。それは、目に見えない何かが、動いている証である。私の足の圧力も、いつかこの白線が消えていく一つの要因となるのだろう。

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