ここ最近は、マナーモード解除がデフォルトで、
着信が来ませんようにと祈る毎日でした。
もうそれも当分ないかな。
私の父が亡くなりました。まだ67歳。
けど最後の最期まで、『生きる』事だけを考えた父でした。
ひと月前に知らされた余命
絶対この想いは記しておかなきゃと思ってnoteに記していました。
https://note.com/emi630/n/n06b252d20764
このnoteを書いた時点でもしかしたら1週間はないかもしれない。と母から言われ。
緊急事態宣言中だけど、私にとっては不要でもないし不急でもない。
レンタカーを借りて、実家へ。
その時はちょうど私の祖母が施設に入る直前だったので、祖母に会う名目で実家に行きました。
そのついでに父と母に会いに行くという建前で、一番の目的・父に会いに行くと言うミッションを達成する事に成功。
久々に会った父はえらく痩せていたけど、
しっかりした足取りで歩いていたし、
いすに座ったり立ったりしていて、これまでとは何も変わっていなくて。
父が作った畑で、子供たちはイチゴやそら豆を収穫させてもらいました。
思ってたよりも元気そうだし、子供達も野菜を摘むと言う経験をさせてもらえて良かったなー!
あー来て良かった♡くらいに思っていました。
後々聞くと本来なら歩くのもしんどいはずなのに、畑まで1人でスタスタ歩いて、孫たちのために立ったり座ったり歩いたり。
ものすごく頑張ってくれたそうです。
(この出来事があってから車を買いました。いつ何があってもすぐに駆け付けられるようにと夫が提案してくれました。)
最後まで私たちに告げなかった病名
父は膵臓がんでした。
見つかった時にはかなり進行していて転移もあったみたい。
最後は足のむくみがすごくなって水が溜まって、歩けなくなり。
足のむくみを和らげるためにと言う目的で入院しました。
亡くなる3日前、母から『そろそろ危ないかもしれない、来て欲しい』という連絡があり、弟と病院へ向かいました。
子供達が畑でイチゴを取らせてもらった時よりも圧倒的に痩せていて、意識も朦朧としていて。
私たちが来る前に母が、
『子供達呼んだからね』と言ったら、
『病名は言ってないだろうな!』と激昂したそう。
血圧が下がって血中の酸素濃度も計れないくらいだったのに、怒ってたらしいです…
病名は私達に言っていないという事で、
私たちは病名は知らないけれど入院したと言う事で心配してお見舞いに来たという事にしていました。
私たちが来てからはたまに寝ちゃったりしていたけど、会話もできていたし、
LINEの TV電話で私の子供達の姿も見せる事ができました。
『じいじ、早く元気になってね!』
という呼びかけにいつものように、
『おう!』と呼びかけていて。
帰るときも看護師さんは今日は危ない気がすると言っていたけど、私も弟もそんな気は全くしていませんでした。
その日から母が泊まりがけになる事になったので、
母の着替えと、万が一父が亡くなった時に病院から出る時に着る用の服を取りに弟と実家に向かいました。
父のためにどの服を持って行くかは母から教えてもらって、
私もこれよく着てたよな、一緒にグアムに行った時に来て行っていたよな、
と見おぼえるのある服をいくつか持って行きました。
自分の父が最後に着る服を私が選ぶなんて、
夢にも思ってなかったし想像もしなかった。
そんな状態でも父は、生きることを考えていました。
やせ細った自分の腕を見て、
『筋肉つけなきゃなぁ』って言っていたそうです。
自分を貫いた父
弟と病院に駆けつけた翌日から毎日のように父と電話をしました。
看病で疲れている母の話を聞いたり、施設に入ってかまってちゃんになってしまった祖母の話を聞いたり。
心がどうにかなりそうでした。
毎朝次男が幼稚園に行く前に電話をして、
『じいじ、頑張ってね!』って伝えてもらっていました。
すると嬉しそうに返事をしてくれて。
亡くなる日の朝もちゃんと返事をしてくれていました。
『じいじ、頑張ってね!』
『おう、頑張るよ!』
これが私が最後に聞いた父の言葉でした。
その日の夜、子供たちを寝かしつけようとしたら電話が鳴りました。
『マジか…』と思い、そして『マジか』と言葉にも出して電話に出ると、
『息をあんまりしなくなってるの』と母からの電話。
今から行くねと返事をして、夫に出発をお願いして一泊できるくらいの準備をしようとしたところ再度着信。
『お父さん、息止まっちゃった。』
パニックになると涙も出ないんですね。
ただただ私は『そうか、そうか…』としか言えなくて、お葬式の準備もしなきゃとフル回転で色んなことを考えました。
登校班の班長さんにLINEしなきゃとか、ごみ当番お隣さんにお願いしなきゃとか。
一刻も早く父に会いに行くために準備をしました。
とにかく車に荷物を詰め込んで、途中都内で働いている弟を池袋でピックアップし、病院へと向かいました。
3日前より小さくなっていた父
3日前に呼び出されて弟と病院に行った時より、さらに小さくなっていました。
最後の2日間は食べられなかったし、ほぼ飲めなかったそうです。
あんなに大きくてむしろ太っていた父は、私と同じくらいの体重まで痩せ細っていました。
最後には看護師さんと一緒に体をきれいにするお手伝いもさせてもらって。
そこから葬儀屋さんに電話をして、お迎えに来てもらうお願いをしました。
40分くらいで葬儀屋さんが来てくれて父を家まで運んでくれました。
(私が病院に行っている間は、真夜中だったので夫に寝ている子供達をお願いして車で待っていてもらいました。)
父がずっと帰りたがっていた家についたのは、午前3時頃でした。
(このタイミングで子供たちは車から実家の部屋に移して寝かせました。)
眠たいはずなのに眠れない。
けど寝なきゃ。
じいじの死を受け入れたこどもたち
父の先が長くないことは、仲の良いママ友何人かには伝えていました。
もしかしたら何かしらお手伝いをお願いするかもしれなかったから。
(幼稚園のお迎えをお願いしたり、預かってもらう可能性もあったから)
ママ友たちがみんな気にしていたのは、亡くなったじいじを見て、
子供たちは大丈夫だったのか。という事。
父が亡くなった電話を受けた時に、子供たちにはそのことを伝えました。
病気で病院に入院をしていることはわかっていたので、病気で死んじゃったと伝えました。
じいじはママのお父さんだから会いに行きたいということ
じいじが天国にいく為のお手伝いをしたい
だからこんな夜だけど、じいじのところに行くからごめんだけど付き合ってねと伝えました。
実際子供たちは病院に行く前に車の中で寝ていたし、実家の寝室に移動した時も起きやしなかったので朝起きてどうしようかと内心バクバクしていました。
目が覚めたら自分の家じゃないので、次男が6時過ぎには起床。
その声で長男も起床。
起きる前に念のため、
『下には死んじゃったじいじがいるよ。もしかしたら怖いって思うかもしれないから、今行かなくてもいいし、もうちょっとこの部屋にいてもいいよ』
と言ったら、二人とも『今じいじに会いたい』と言いました。
嫌な記憶になってしまうとしても、子供たちにはきっちりじいじの死を受け止めてほしいと思っていました。
出来る限りのフォローはして、怖い記憶になってしまっても大切な人がなくなるってどんなことか子供ながらに感じてほしかった。
そんな私の心配はよそに、二人ともすんなりじいじの死を受け入れました。
冷たくなってる。
お線香やらなきゃね。
寝てるみたい。
怖がるというよりは、お線香を絶やさないようにめちゃくちゃお線香のことを気にして(仏教では死んだ人はお線香を食べるとか葬儀屋さんが言っていた)、
自分たちが作った折り紙を枕元に持って行ったり、食べたお菓子の一部をじいじに分けてあげたり。
じいじがきっと喜ぶだろうことをたくさんしてあげていました。
こじんまりとした家族葬のつもりが立派なお葬式に
コロナ禍でもあったし緊急事態宣言も出ていたので、
ほんとうにこじんまりとした家族葬にするつもりでした。
親戚や近所の人たちが集まっても20人来ないくらいかなと予想していたのが、父の人脈をこんな時に思い知らされました。
亡くなったことは母と弟が、生前父が仲の良かった方々に電話で知らせていました。
当たり前だけどみんな驚いて、言葉を失っている人もいたらしいし、
気が動転してしまったので折り返し電話させてくださいと言った方もいたそう。
(私たち子供だって一か月前に知ったからね)
仕事のついでではあったけれど遠くは鹿児島から、居ても立っても居られないと父が大好きだったお酒をもって富山から来てくださった方もいました。
ほんと有難いの一言です。
このご時世、来られない方が当たり前なのに。
出棺の時、たくさんのお友達に棺を抱えてもらって霊柩車に入れてもらっていました。
(私は写真を持っていたり、火葬場に行くのに子供たちが葬儀場の控え室に忘れてきたモノを取りに行くのでバタバタしてたから横目でしか見えなかったけど・・・)
ほんとよかったね。
立派に喪主を務めた弟
弟はまだ20代。
弟自身も20代で父親の葬儀の喪主をやるなんて思っていなかったと思う。
けど母からの話だと、父の病気の話を聞いてからは覚悟していたみたい。
姉の私が言うのもなんだけど、本当に立派に喪主を務めました。
葬儀屋さんとの打ち合わせも、その他諸々、喪主の最後の挨拶も本当に素晴らしかった。
これこそ父は喜んだと思う。
参列してくれた私の幼馴染は、弟の立派な姿に涙が出たと言っていたから。
母
父の2年間の闘病の間、ほとんど一人でそれを背負った母。
本当は私や弟にも聞いてほしかったと思う。
会うたびに、私の知らない父の闘病時のことを話してくれるんだけど、
辛かっただろうなって思う。
母だけが常に余命と悪化する病状のことを話されて、
それを一人で抱えなきゃいけないのは本当にしんどかったと思う。
こないだ帰省した時もたくさん話してくれて、きっとまだまだ話足りないと思うから、これからゆっくり時間をかけて話を聞いていきたい。
私こそ受け入れられていないという現実
子どもに父の死を受け入れてほしいと願っていながら、
私自身がいまだに父の死を受け入れられていないのが現実。
一緒に暮らしていないし、近くに住んでいるわけでもないから
本当に死んじゃったの?って感じ。
病院に呼び出されて、弟と父に会いに行った時も、
『この人本当に死んじゃうの?嘘だよ。だって産まれてからずっといる人なのに。』
父の感情だとか想いとかって、どこに行っちゃうんだろう。
今さらながら人って死んだらどうなっちゃうんだろうってその時ずっと思っていました。
そんなことを不思議だなと考えている私だから、実家にある父の骨壺を見てもイマイチピンとこない。
だからあのしんどそうにしていた病院での姿は目に焼き付けるように何度も反芻するようにしているし、頑張って生きた証として心に刻め続けておきたいから。
毎日毎日想ってるよ、お父さん。
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