見出し画像

誰かのために祈ることは、自分のためになる

出張や旅行へ行くとき、神社を見つけると自然と足が向く。人がたくさんやってきて混雑する名所よりは、地元の人が日々のささやかな祈りをささげるような小さな神社を訪れるのが好きだ。

今日も旅先の金沢・ひがし茶屋街で友人たちの買い物を待つ間、そばに建つ宇多須神社に1人でふらりと入った。小ぶりの鳥居をくぐり、誰もいない参道を歩いて石段をのぼる。100円をお賽銭箱に投げ入れて、二礼二拍手。

そして、目を瞑り、祈る。

わたしはいつからか、参拝前にあらかじめ願いごとを決めておくことをしなくなった。お祈りの中身を先に決めていたとしても、いざ目を閉じて手を合わせたらまったく別のことを願っていることが多いからだ。きっと、そちらの方が自分の心の中にある"本当に望むこと"だろう。そう信じているから今回も同じようにした。

パン、パン、とたたいて手を合わせた瞬間に、ふわりと浮かんだ3つのことを願った。いま歯を食いしばりがんばっているあの人の成功を、いま体と心を痛めているあの人の元気を、そしていま一緒に旅をしている仲間たちの穏やかな幸せを、じっと願った。

手のひらが離れた瞬間、ふっと笑みがこぼれた。自分は心の底から、誰かに思いを馳せて祈っていた。静かに、とても穏やかな気持ちで。これまでも大切な友人たちについて祈ったことはあるけれど、それはあくまで「自分の願いごとの次」にあった。純粋に誰かのことだけを思って神様に祈ったのは初めてかもしれない。

日本で「祈る」という行為は神職や住職でない限り、頻繁にするものではない。自分の人生を懸けた一大勝負か、はたまた宝くじの当選番号を確認するときか、応援しているスポーツチームの勝利を願うときくらいだろう。

自分ではない誰かのために祈ることは、そういう種類のものとはだいぶ違う。祈ることしかできない自分の立場と無力さを受け入れた上で、それでも、たとえ離れたところにいてもその相手のことを思っている、幸せを願っている。そんなことを神様の前で再確認している。

昔は、自分の人生に手いっぱいだった。誰かへの思いを再確認することの重要性なんてそれほど考えていなかった。だけど、「誰かのために祈る」ことは、同時に「誰かのために祈っている自分のやさしい気持ちを確認する」ことでもある。

心の中で確認するだけで何が変わるというわけでもない、他人からは見えないとるに足らない行い、でも人生を幸せに生きるためには大切な心がけを、今日もどこかでたくさんの人たちがやっているのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?