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シンガーレディ~身を唄に捧げた女~(しばたはつみ論)

歌手しばたはつみは2010年3月27日、急性心筋梗塞により57年の生涯を閉じた。浴室で亡くなっていた所を同居の父が発見。晩年はうつ病や乳がんと戦いながらも、銀座のライブハウスで細々とコンサート活動を続けていた。“もうみんな私のこと忘れているよね?”が晩年の口癖だったと言う。

しばたはつみは1952年4月11日に東京で生まれ、父がピアニスト、母がヴォーカリストという恵まれた音楽環境に育つ。9才で米軍キャンプで歌い始め、11才で“スマイリー小原とスカイライナーズ”の専属歌手となり、1974年に「合鍵」でデビュー。1977年に「マイ・ラグジュアリー・ナイト」が大ヒットし、この年の第28回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしている。

歌謡曲を愛する世代の大人たちが抱くしばたはつみのパブリックイメージとは、「合鍵」や「マイ・ラグジュアリーナイト」の歌詞世界に顕著な、恋に生きる女性の妖艶さ、実らぬ恋を追いかける女性のせつなさ、はかなさ、といった、ややもすると女性の盲目的な部分をディフォルメしたイメージではないだろうか?実際、芸能界という所で身を立てる為に“そのような路線”で売り出され、そしてある一定の成功を収めていた事に変わりはないだろう。しかし、そのような、芸能的イメージが先行しすぎた為に、彼女の本来の魅力であるシンガーとしての特質がおざなりになってしまった感は否めない。

飽和状態に達している現在(2010年)の日本の音楽シーンには全くと言っていいほど存在しない、圧倒的で緻密な歌唱力・表現力を、彼女は兼ね備えているという事実。“ソウルフル”という、日本人が使うとオママゴトになってしまうフレーズも、彼女にはピタッとはまってしまう。20才の時に単身渡米し2年間アメリカ・ショービジネスの世界で吸った空気が、彼女のシンガーとしての魅力をかたち創った。スリー・ディグリーズや、ティナ・ターナーといった“むこう”のホンモノのフィメール・ソウルの大御所と肩を並べ、そこに日本人としての正確さ緻密さが加わった唯一無二の女性ジャズ・ソウル・シンガーというのが、しばたはつみの今日の最も正しい評価であるべきではなかろうか。

無論、ジャズやソウル以外にも、どんな曲でも歌いこなせる実力が彼女には十分にあったが、やはり彼女の残されたマテリアルを聴けば、ソウル・ミュージックへのアプローチは、水を得た魚の如く群を抜いている。曲の間奏で入れるスキャットや、変幻自在のフェイクなどの歌唱法は、どれだけ練習しようと出来るものではない。演奏と自然に一体となり、その歌詞の表現を最大に高めるようなソウルフルな歌唱法は、恵まれた英才教育もありながらも、天性の才能による所が大きいであろう。

そのような彼女のソウル・シンガーとしての魅力が十分に発揮された、奇跡的な一枚のアルバムが1975年に発表された『シンガー・レディ』である。今作では、ルパン三世等で知られるジャズピアニストの大野雄二がサウンドプロダクションを手掛けている。この頃は大野がジャズの地平から、ソウルやコンテンポラリーなポップミュージックへの音楽的実験を試みていた時期でもあり、革新的な大野サウンドと、若く生命力の満ち溢れたしばたはつみのヴォーカルが高水準での結晶をみせている。そして、これだけの熱量を持った作品はこれ以降彼女の作品では存在していない。

▼シンガーレディ


大野雄二がルパンサウンドを生み出すのが1977年である事を考えると不思議な感覚ではあるが、まるで峰不二子が港で歌う、自身のテーマソング集のような錯覚にさえ落とされる。また、1992年にTV版のルパンシリーズの曲として「ゴールデンゲーム」という曲を大野雄二&しばたはつみのラインナップで提供しているが、歌謡曲調の同曲は『シンガー・レディ』ほどの魅力は残念ながら生み出せてはいない。

『シンガー・レディ』は文字通り、歌う女性にスポットを当てたある種のコンセプトアルバムなのだが、しばたはつみという女性シンガーの人生を、丸ごと表現しているような趣もあり、まるで“シンガーレディ ~しばたはつみ 歌に生きた女~” という自伝映画が存在したとして、それを見せられたような気にさえなってくる。しかも、本人の最高にポテンシャルの高い歌声と共に。(筆者は近い将来、そのような映画が制作され公開される日を心まちにしている)

『シンガーレディ』の中に「シンデレラ・シューズ」という曲があり彼女はその中でこう歌っている。

“私はみんなに言ってた
子供の頃からよ
きっとスターになるんだ
スターになるわって
みんなに言ってた”

周囲からも賞賛が惜しまれなかったであろうその歌唱力に、しばたはつみ自身もきっと幼少時より、周囲に“スターになる”と公言してはばからなかったのではないだろうか。しかし、たった一曲のヒット曲と紅白出場という結果のみで、後世に名を残すまでのスターにはなり得なかった事を考えると、切ないドラマ性を帯びて、彼女の人生がこちらの胸に迫ってきてならない。

“もうみんな私のこと忘れているよね?”という晩年の口癖などは、類まれな実力を持ちながらも、スターになりきれなかった、現実の一人の女性シンガーの生き様の妙味を感じさせる。

1977年の「マイラグジュアリーナイト」のヒット以降、80年代・90年代と至る音楽シーンの荒波にもまれ、しばたはつみの日本歌謡界での輝きは徐々に失われて行った。ニューウェーブやテクノ、そして90年代のJポップサウンドの使い捨ての洪水に、ホンモノで普遍的な彼女の歌声は不必要とされたに違いあるまい。

90年代のジャズビッグバンドとの共演などは、彼女自身の原点回帰として名演が光ってはいるが、旧時代の産物としての印象はぬぐい去れない。しばたはつみの本当の魅力が光り輝いているのは、大野雄二とのファンク路線が爆発したアルバム『シンガーレディ』や、司会を務めたTVショー“サウンドインS”でのゲストとのコラボレイションの名演である。また、洋楽カバーを中心にした70年代に出した数枚のライブ・アルバムが、最高のショーケースとなっている。

彼女のポテンシャルが高水準で顕現したアルバム『シンガーレディ』ですら、歌謡曲路線は含まれている。残念ながら、日本の音楽業界は、しばたはつみという稀代のヴォーカリストのポテンシャルを、最大限に引き出しきれずに、霊山へと旅立たせてしまったと言わざるをえまい。

近年、椎名林檎がしばたはつみをカヴァーしてはいるが、しばたはつみのパブリックイメージである、“情念に駆られた盲目的な女性像”をなぞらえているにすぎない。和物ソウルといった名目でクラブシーンのDJが、高額な当時の皿(レコード)を回していたり、大野雄二のルパン路線からの一定の層に好まれるに止まっている。また、コロンビアからシングルベスト版が編まれていたりもするが、例えば未だCD化がなされていないmy sweet little eyes (ロッテCMソング「小さな瞳」の英語版)など、まだまだ残されているであろう、彼女のジャズ・ソウル・シンガーとしての魅力の詰まったマテリアルの編集作業は進んではいない。


海外と互角に渡り合える和製フィメール・ジャズ・ソウル・シンガーとしての観点から、しばたはつみを正当に再評価できる日が、日本の音楽シーンにやってくる事を願ってやまない。

天国で、フレディ・マーキュリーや、マイケル・ジャクソンらに、その才能を認められ、楽しく歌い踊っている彼女を偲びつつ―――

※以下記事からの転載となります。
https://eme.tokyo/?p=186

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