尹東柱の詩は、人と人をつなぐ
尹東柱の詩を読んでいると、ときどき韓国からゲストがやってくる。
大学生、高校生、詩人の団体、私設図書館関係者…これまで、いろんな人たちと交流してきた。
コロナでしばらく交流が途絶えていたが、今年の秋から少しずつ連絡が入るようになった。
「尹東柱が亡くなった刑務所跡地を案内してほしい」
「詩を読む会に参加したい」
「一緒に朗読会をしたい」
文化解説士一行がやってきた
9月初め、韓国全羅南道光陽市の文化解説士一行18人が来福した。
尹東柱詩人ゆかりの立教大学、同志社大学を回って、福岡にやって来たのだ。
尹東柱が収監されていた福岡刑務所があった場所を、当時の地図などで示しながら、ぐるっと回った。
ゴールの百道西公園では、詩を読む会がスタートした経緯、月例会や追悼式のこと、尹東柱の詩を通して感じてきたさまざまなことを話した。
実は、今日私たちが尹東柱詩集を手にすることができるのは、光陽市のある家で詩稿が保管されていたからだ。
朝鮮語の使用が禁止されていた時代、朝鮮語で書かれた詩稿は、日本の官憲に見つかれば没収されることになる。
それを避けるために、尹東柱の親友のオモニが、床下の甕の中に詩稿を隠して守り抜いたのだった。
その家は、光陽市の文化財として保存され、文化解説士が毎日2人常駐して訪問客を案内しているという。
私は、その家を今から20年ほど前、釜山の友人と訪ねたことがある。
時はめぐりめぐって、今度はその光陽から人々がやって来た。
彼岸花が咲いていた
9月半ば、韓流映画やドラマに詳しい李香鎭さん(立教大学異文化コミュニケーション学部教授)と、茨木のり子研究が専門の金智英さん(立教大学講師)が詩を読む会に参加。
2人ともオンライン「尹東柱と詩を読む会」の仲間だ。
翌日、百道西公園に案内した。
いつものように藤崎駅を出発して福岡刑務所跡地の周りをぐるり。
尹東柱が収監されていた北三舎の前の小学校の校庭には、昔から植えられていたであろう松の木がある。
尹東柱が独房の小さな窓から、差し込む光や、吹いてくる風を感じたり、コオロギの鳴き声を聞いたりしたのだろうか、とここを案内するたびに思う。
彼は、1938年(推定)に「こおろぎとわたしと」を書いている。
こおろぎとわたしと
こおろぎとわたしと
芝生で話をした。
リリリ ルルル
リリリ ルルル
誰にも教えてやらないで
ないしょの約束をした。
リリリ ルルル
リリリ ルルル
(伊吹郷訳)
この作品を読むと、尹東柱が草むらの上に寝そべってこおろぎと会話をしている姿が浮かぶ。
そこには、こおろぎと尹東柱の小宇宙がある。
この6年後、彼はどんな思いで、独房の中でこおろぎの鳴き声を聞いていたのだろうか。
校庭に彼岸花が咲いていた。
若者に未来あれ!
11月初め、韓国の政府機関が主管する、若者たちの海外研修プログラムに招待されて、尹東柱の詩を読む会の仲間と交流会に臨んだ。
若者たちの多くは、中国やロシア、ウズベキスタン、日本に住む韓国人の3世、4世たち。いわゆる在外同胞で、現在、韓国の大学に留学中だそうだ。
共に代表作「序詩」を読む。
序詩 1941.11.20
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風にふきさらされる。
(伊吹郷訳)
翌日、彼らと共に尹東柱詩人が亡くなった福岡刑務所跡地周辺を歩く。
未来を担う彼らに伝えたかったのは、
尹東柱の詩は、時代や国を超える普遍性があること。
相手を知り、理解しようとする気持ちが未来を切り開くこと。
これらは、私が尹東柱の詩を読み、韓国の人々と交流する中で学んできたことだ。
そして、これからの長い人生の中で、彼らが「あの時、福岡であんなことがあったなあ」と思い出してくれたらうれしい。
最後は、みんなで風車に未来へのメッセージを書いた。
平和、愛、感謝、希望、過去、記憶…と書かれた文字。
彼らの明るい笑顔を見ていると、私の気持ちまで明るくなる。
彼らにとって明るい社会となりますように。
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