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【感想『夜明けのすべて』】夜明け前の暗さをこの身で知る

とても良かった。

見ている最中も映画館を出てからもとても充実した気持ちで心が一杯になった。
優しくて、でも重くない。見守っているけど、寄り添ってはいない。
それはこの映画がケアを自然なこととして描いたからこそだと思う。

山添はドキュメンタリーのインタビューで職場でお菓子を配る様子に不満を抱いていたと告白する。勝手に想像すると、その頃、彼は「ぬるいことやってるな」とか思っていたんだろう。
彼はそういう人だった。おそらく大企業で働いていただろう山添は、能力主義やエリート主義、自由市場的な規範や価値観を内面化していたのだろう。だから栗田科学の同僚たちを向上心がないと表現した。
これがケアにまとわりつく負のレッテルだ。甘えてるとか、成長しないとかそういうレッテルやイメージがケアにはつきまとう。

逆にケアをとても素晴らしいものとして祭り上げる人もいる。ケアは良いものだとレッテルを貼る。そして24時間テレビ的な過剰に脚色されたケアの物語が存在する。

競争を煽る社会への敵対視としてケアを重視する人や規範意識からケアをする人が持つケアへの過剰な信仰は単にイデオロギーの違いでしかない。つまり「競争こそ全てで、助け合いなんて甘っちょろいことをするな」という思想の裏返し(「助け合いこそが全てで、競争なんていうクソみたいなことをするな」)でしかない。

けれど、この映画はどちらの思想、規範意識とも距離を取っていると感じた。
じゃあこの映画に存在するケアの形が何なのかと考えると、個人的な関係の中にある実感によるケアだった。つまりただの優しさだ。ただ気遣う。気が向かう。それだけのあり方に見える。

『恋愛未満』とか『恋愛以前』っていう関係や状態として捉えたいとまったく思ってなかったんです。避けるとも違って、普段の自分たちの生活で当たり前にあるように、性別に縛られないただの人間同士のやりとりを撮りたい。(太字引用者)

つながり、ふたりを見守る人々 | CINRA

だから、ケアの規範からすればアウトなイジリも成立する。個別の関係性だからこそ成立する気遣いと助け合いのあり方がこの映画にはある。

このただの優しさが山添の中にあるケアへの負のイメージ、そしてその負のイメージの根幹にある規範意識や価値観を溶かしたのではないかと思う。
僕は基本的に人を信頼するのが苦手なので、山添が発作を起こすシーンで職場の人たちがとても自然に気遣うシーンにハッとした。「ああ、人って発作を起こしてる人を見ると自然と心配になるものなのか」と。
栗田社長と渋川さんがいた互助会的なコミュニティの描き方もとても自然だった。何か具体的なイメージをそこにもたらすことなく、ただそこにあるコミュニティをただ映す。あの場所に10年通っている人も5年通っている人もいて、つながりもできている。そうした自然なコミュニティとして、ケアの場が描かれていることに新鮮味を覚えた。

実際、三宅監督もインタビューでそういった旨のことを語っている。

[……]名づけえない、まだあんまり名前のない関係性みたいなものの中にある、特に幸せな瞬間みたいなものがキャメラに映し出せればいいなっていうことはずっと考えているのかなという気がしますね。

三宅唱さんインタビュー「名づけえない“特別な瞬間”を撮りたい」 | NHK北海道

上述の通り、山添は最初、栗田科学の人たちを向上心がないと評した。
たしかに助け合うことは上に向いていくことではない。だから彼の感覚はある意味正しい。けれど、人生においては、上へ向かうだけが全てではない。横を向いて互いを認識し、助け合うこともまた不可欠なものだ。

これは下を見て誰かを助けてあげることとは違う。上を見て序列へチャレンジするエリートビジネスマン的な山添の価値観はケアを「下を向くこと」と認識させた。けれど、人は本来横並びだ。そこに規範の物差しが当てられることで序列化が発生する。
こうあるべき、そうあるべきではないという視点で人を見れば、これが足りてないだの、あれがありすぎるだのと文句を言いたくもなるし、逆に(規範的に)満点の人を褒めそやしたくなる。

この規範意識に立ち向かうには個人的な感覚をちゃんと持つことが大事になる。人を助けるって何だろう、人に優しくするって何だろう。それは例えば、料理って何だろう、人と話すって何だろうといったレベルのものまで、自分にとってそれらが何を意味するのかを感じ入ることが、規範意識を遠のける。このプロセス、規範意識ではなく個人的な感覚を大切にすればこそ、横にいる人の方を向いて気遣うことができる。

藤沢さん(や、周りの人たち)に助けられ、藤沢さん(や、周りの人たち)を助ける。
PMSのことを理解しようと本を読むことも、お土産を買って帰ることも、すべて彼が自分なりにケアとは何か、人を助けることや人に優しくすることとは何かを実践しながら感覚的に掴んでいった。
ケアを自分ごとにし、そして自分なりに意味づけをした。それが予告にもあるセリフにつながる。

「助けられることはある」

男女の友情なのか、恋愛関係なのか、そういう状態や属性、関係性につく名前の話はどうだっていい。そうじゃなくて、助けるという行動こそが大事なんだという想い、ケアにまとわりつくレッテルを脱した証拠がこのセリフには詰まっているように感じた。
そして彼は内面化した規範からも脱したのだろう。

ここまでずっとケアという言葉を使い続けてきたけれど、この言葉にはニュアンスが染み込みすぎていて使うのが嫌になる。ケアでなくても助けることはできる。

この映画がずっと映し出した自然な優しさは現代的であり、そして普遍的であると思う。
どんな規範、ポリコレ、コンプラ、正論がこれから生まれてこようと、しっかりと横を向き気遣うことが何よりも大切である。


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