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科学万能時代における祈り 〜現代人はなぜ祈るのが難しいか〜

 皆さんは「祈り」の効果を信じますか? あるいは、何らかの信仰心を持っておいででしょうか。

 20世紀、21世紀となり、科学が発達するにつれ、宗教・神仏を信じる人は世界的に少しずつ、減少しているように思います。

「根拠」偏重の時代、だけど・・・

 信仰や祈りには、根拠が薄いように考えられています。実際、フェイクニュースや陰謀論が闊歩する現代において、正しい科学的思考や「根拠を問うこと」は重要です。

 根拠があるから信じること。これは科学です。
 根拠がなくても信じること。これは信仰です。

 科学は客観的であり、再現性を求められます。客観性と再現性があることは良いことです。
 誰でも同じ手法を再活用し、期待する結果の再現ができるからです。便利であり、そして確実です。

 対する信仰は、主観的なものであり、根拠が必ずしもあるとは限りません(ある場合もあります)。

 ですが、最新の科学を持ってしても、達成できないものがあります。それは人の幸せです。
 科学や医学で障害を直したり、病を治したりすれば、それは人の幸せに繋がることがありますが、確実ではありません。

「幸せ」は相対的

 何故なら、幸せは通常、相対的なものだからです。望ましい結果が得られればその時は幸福を感じますが、しばらく経つとそれが普通になり、幸せを感じなくなるものだからです。より幸せを感じるためには、さらなる期待の実現が必要になり、その道には際限がありません。

 もし、科学を持ってしても、あるいは現代の科学の限界によって、期待する結果が得られないとしたらどうなるでしょうか? 21世紀の現代でも、科学で解決できないことはたくさんあります。最新医学でも治せない病魔や大怪我、または誰もが逃れられない老い、そして、資本主義がもたらす経済的な苦境、先の見えない未来……。

現代人は「根拠がない」と不安になる

 頼みの科学でも解決できない問題にぶつかった時、私たちは不安や失望に苛まれます。何故なら、期待する結果を得られる根拠を失ったからです。幸せになれそうな根拠がない。だから不安になります。「根拠がなければ信じられない私たち」は、ここでつまづくのです。現代の私たちは「根拠があること」を重視する姿勢があだとなり、「根拠を失うこと」で不安に苛まれるのです。

 幸せに対する科学のアプローチの限界、それを限界突破するにはどうすれば良いか。

(ありがたいことに)信仰に根拠は必要ない

 ここで、信仰が役に立ちます。
 何故なら、信仰は必ずしも根拠を必要としないからです。
(聖書を信じている方は、「聖書的な意味で信仰にもちゃんと根拠がある」というご意見があると思いますが、本論では「信仰」という言葉を少し異なる意味で使っていますので、そのご意見はあえて脇に置かせてください)

 必ずしも前もっての保証がない何かを、目隠しした状態で、それでも思い切って飛び乗ってみるのです。不安や不幸を癒すものが、その先にあります。

 その信仰とは、神様の導きです。神様、という言葉に抵抗がある方は、この地球や私たちを作り出したこの世の根源的な存在、または宇宙などに置き換えても構いません。

 人生の全ては神様の計らいによってもたらされている。人生のどんな局面にも、神様からのメッセージが何かしら含まれている、良い時も、唾棄したくなるようなひどい瞬間も、人生における何かしらの有意な意味が潜んでいると。それを何も根拠はないけど、とりあえず信じてみる、というアプローチが、人生の苦境を乗り越える上で有用となります。

「期待が裏切られる」から不幸になる

 これは、科学万能の時代に生きている私たちには難しいことです。「根拠もないのにそんなふざけたこと信じられるか! 信じてみたところで期待した見返りがなかったら? まるで騙されたみたいじゃないか!」となります。

 しかし、考えてみると、私たちが人生に苦しむ原因が、先ほどの叫びに現れています。
 私たちは「期待」という海で溺れています。

 「期待したように経済的な問題が解決するか」、根拠がないので不安に怯える。
 「期待したように出世できなかった」、期待が裏切られたことにいかぶる。

 抱いていた期待が裏切られると、私たちは不幸を感じます。また、期待が叶えられるかわからない、と不安になるから、信仰を持つことに恐れを抱きます。信仰が、期待が、裏切られるかもしれないからです。

期待を持たなければ、祈りやすくなる

 ここに、信仰を持ちやすくするコツが2つあります。

1つ目は、期待を持たずに祈ることです。

 期待を持たずに祈れば、裏切られることはありませんね? だって裏切られる期待がないのですから。安心して祈ることができます。

2つ目は、すでに実現していることについて感謝することです。

 これも安心してできる方法です。何故なら、すでに自分が持っているからです。持っているから裏切られるも何もありません。すでに自分が持っているものに対して、私たちはつい当たり前だと思い、感謝しないでいることが多いです。感謝しましょう。私たちは、すでに持っているものについてはなんでも経験できるのですから。すでに持っている物、環境を、ありがたく味わい尽くし、それに感謝しましょう。

3つ目、これは少し勇気が要ります。「願うことは間も無く叶うと、根拠はないけど信じる」ことです。

 これは、1つ目と2つ目の実践を日々通じて、やがてできるようになります。

 もし、しばらく経ってみて、その通りにならなかったら、「そのうち叶うだろう」とか「まぁ、それはそれでしょうがないや」と思いましょう。あるいは、「もしかしたらすでに実現しているんだけど、それは自分が期待したような形とは別の形で実現していて、単に自分がそれに気がついていないだけかも」と思いましょう。

「祈り≠神頼み」から「祈り=人生の賛美」へ

 「ちくしょう、願ったのに、神様は叶えてくなかった!」と思うと(別に思うのは自由ですが)、それまでの自分に戻ってしまいます。神様の導きを信頼しましょう。難しいことかもしれませんが、期待さえ持たなければ、比較的やさしいです。「祈り=神頼み」ではなく「祈り=人生の賛美」と考えるとうまくいきます。

 ここまで紹介してきた信仰のアプローチは、私の愛読書「神との対話」に出てきた叡智からヒントを借りました。気になった方はぜひ読まれてみてください。


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