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結婚がゴールで何が悪い

よし、結婚をゴールに据えて走ってみよう。そう思ったのは、アラサーを間近に控えた25歳のときだった。それまでは、「結婚をゴールに」なんて、まともに考えたことがなかった。私はずっと、結婚なんかできないという前提で生きてきたからだ。


小学校を卒業する少し前までは、自分もいつかお嫁さんに行くんだろうと信じていた。しかしそのうちに、「自分みたいな女と結婚したい男なんているわけがない」と確信を抱くようになり、気が付けば「結婚しなくても幸せになれるから大丈夫」と自分に言い聞かせるようになった。たまに「母親になりたいなあ」なんて思ってしまうと、ああだめだ、と慌てて否定する。そんな叶わない夢を見て、あとで傷つくのは自分だから。


いいじゃないか、結婚なんてしなくたって。私には家族もいるし、友人もいるし、もう十分幸せなんだから。


学生時代までは、なんとかこれでやり過ごせた。しかし、社会人になって、同世代の既婚者が誕生しはじめると、次第に乗り切れなくなってくる。そしてついに、危機的な事態がやってきた。

既婚者が少しでも愚痴を言おうものなら、私の頭の中が、「結婚できたんだからいいじゃん」の14文字で支配されてしまうのである。脊髄反射並みの、他の思考が追随できないスピードで。


「夫が家事してくれなくてさ」「(結婚できたんだからいいんじゃん)」、「仕事が忙しくて大変で」「(結婚できたんだからいいじゃん)」、「推しのコンサートに落選した」「(結婚できたんだからいいじゃん)」。


これはひどい。もし口に出していたら、ことごとく友達に嫌われていただろう。実際に、私はどんどん自分のことが嫌いになっていった。

人の幸せが結婚の有無で測れるなんて、そんな馬鹿なことあるわけがない。そんなこと、もう十分にわかっている。それでも、「結婚できたんだからいいじゃん」を止められない自分が、情けなくてみっともなくて悲しかった。


そんな私に残されたひとつの希望、それは仕事だった。小さい頃から、「女の子が家庭に生きるか仕事に生きるかを選べる恵まれた時代」と言われてきた自分が、仕事に生きればいいと考えたのは、当然の帰結だったと思う。

しかし、残念ながら、そううまくはいかない。新卒で金融機関に入社してから一年半、私はずっと落ちこぼれだった。不遇だったわけではなく、ただ単に実力がなかったのだ。営業マンだったのに、一か月で一件も受注できない月が何度もあった。気がつけば、「どうせ結婚できないし」のあとに「どうせ仕事もできないし」が加わった私は、これからあと50年以上生きていけばいいのか、途方に暮れてしまった。

もし今の自分だったら、何が「家庭か仕事か選べる」だよ、と鼻で笑えるのに。人をバカにするのもたいがいにしたら、と。でも、あのころ、ぎりぎりで踏ん張っていた私はそんなふうに笑えなかった。


ここまで弱ると、何が寄ってくるかは決まっている。高額な自己啓発セミナー、理解不能な健康食品、不穏なビジネスである。なぜ彼らは、こうも弱っている匂いをかぎつけ、ささっと寄ってくるんだろう。なぜ私のねじ曲がった根性が、浄水器やらサプリメントできれいになると思うのか。そんな科学の新発見があるなら、ぜひ今からでも教えてほしい。

各方面の勧誘から逃げ回っていると、相手のあまりの真剣さに、なんだか罪悪感まで湧いてくる。何も知らないまま毛嫌いするのもどうなのかと思って、つい足を踏み入れた無料セミナーでは、「あなたは素晴らしいと参加者同士が叫び合う」というセッションで、参加者が次々と泣いていた。

ええ、なんで?初めて会った人に、君は素晴らしいと言われて、なんで泣くの?何も知らないのに?え、生きているだけで素晴らしいって意味?そんなことなら、もうずっと前から知っているけど。
結局、私は最後まで、見ず知らずのイケメンに対し、あなたは素晴らしいなんて言葉は吐けなかった。


ああもう、狡猾なセミナーですら、私の思考を前向きに染めてはくれないのだ。はー。しんどい。やってられん。でも、こんなことばかり思いながら死んでいくのは嫌だなあ。家族もいるし、友人もいるし、毎日のごはんもおいしいけれど、でもやっぱりこのままでは嫌なのだ。そうして悶々としていたある日、めちゃくちゃグッドなアイデアが閃いた。


これはもう、結婚するしかないんじゃないか。


世紀の大発見だと思った。ワンルームの真ん中で、この結論にたどり着いたとき、私は心底感動した。これまで10年以上、「結婚したいな」「母親になりたいな」という欲求を全力で打ち消してきたから、そもそも「自分は結婚したい」と本気で認めることすらなかったのだ。周りの友人と話を合わせて、「いつかは結婚してみたいかなあ」なんて言ってみたりしても、腹の底では「どうせ私は結婚なんてできないのに」と澱んだ気持ちをかき混ぜていた。

しかし、みなさんお気づきの通り、本当はもう吐きそうなくらい結婚したかった。結婚に対する猛烈な欲求が、身体中に満ち満ちてあふれていた。たとえ、イコール幸せじゃないと言われても、古い考えと言われても、結婚生活がうまくいかなかったとしても。それでも私は、一度くらい、大切な人と家族という単位を築こうと約束してみたい。その溢れんばかりの欲求を認めて将来を考えるという行為は、私にとって、今まで感じたことのない新鮮な体験だったのである。


こうして、私のゴールには、結婚という二文字が掲げられることになった。初めは、恥ずかしくて誰にも言えなかった。私なんかが結婚したいと思うなんて。いやー。恥ずかしすぎる。身の程知らず。やばい。文字にしただけで顔から火が出そう。
だから慎重に、期待しすぎないように。だって、自分は結婚できるなんて思い込んでしまったら、いずれ立ち直れなくなるかもしれない。きわめて現実的に、「もしかしたら3%くらいは結婚できる可能性があるかもしれない、そのために5年くらいは全力で頑張ってみよう」と一人ひそかに誓った。そこまで頑張ってダメだったら、他の将来も描けるかもしれない。そう思うだけでも、自分の気持ちは、少しずつ楽になっていった。


そこから、いろんなことがあった。モテる女になれなくても35億分の1にさえ出会えればいいと肝に銘じ、婚活パーティや合コンという自分のモチベーションが下がる場は全力で回避し、自分の機嫌を自分で取りながら結婚への具体的な方策を日々模索した。そして紆余曲折を経て、何とかゴールテープを切ったのである。


つべこべ言わずに結婚をゴールに掲げて、本当によかったなあと思う。そりゃ、「結婚はゴールじゃない」と説教を垂れたい人の気持ちは、わからなくもない。たまに見かける、「とにかく結婚したいという姿勢は相手に失礼」とかいう意見も、まあわかる。でも、でもさ、どうしても結婚したかったんだから、仕方ないじゃないか。自分の気持ちに嘘をつくほうが、よっぽど不健全だと思いませんか。

夫と出会えたのも、結婚に至ったのも、本当に恵まれた出来事で、自分だけではどうにもできなかったと心底思う。でも、もしあのとき、明確に「結婚をゴールにしよう」と決意していなかったら、その出来事に遭遇すらできなかっただろう。そうしたら、あの沼からは、どうやっても抜け出せなかったかもしれない。私みたいに、結婚すること自体に、大いに意味がある人間だって、きっと少なからず存在するのだ。


結婚に向かう長距離走は、こうして無事に幕を閉じた。ゴールした私は、新婚旅行に行って、不妊治療をして、息子を産んだ。出産からしばらくしたある日、すやすやと眠る息子を抱いた夫が、さらりと言い放った。「あー、結婚もして子供も生まれて、もう満足だね。やりきった感あるね。俺もう死んでもいいや」

え。いやいやちょっと待ってくれよ。ここで勝手にゴールを切られちゃ困るのよ。そりゃ、私だって、結婚したときにちょっと満足しちゃったけど。いやでも、ほら、息子もこれから成長するし。きっと楽しいこともたくさんあるし。お金とかも必要だし。せっかくだからさ、ゴールテープを切ったあとの世界も、味わい尽くしてみませんか。そりゃあ、楽しいことだけじゃないって、もうお互い気づき始めてはいるけどさ。




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