できるだけ何も感じない / コロナ禍の日常
朝の6時15分。遮光カーテンの隙間から日差しが漏れて、息子の頬を細く照らしている。スマートフォンを構え、息をひそめて、寝顔を写真におさめた。シャッター音で目を覚まさなかったことを確認して、足元にぐちゃっと丸まったタオルケットを手繰り寄せ、二度寝の態勢に入った。
本当ならいまごろ、旅行の最終日だったね。朝ごはんを食べながら、夫が言った。そういえばそうだった。この週末は、長らく会えていない親戚と、北陸旅行に行く予定だったのだ。しかし直前になって、感染拡大のスピードがみるみる加速し、重症者以外は基本自宅療養との方針まで打ち出されて、キャンセルを決めた。三歳の息子は、初めての北陸新幹線に乗れなくなったことにショックを受けていたけれど、新しいプラレールを買おうと言ったら上機嫌になった。旅行よりも、プラレールのほうがずっと安いじゃん、と笑ってしまった。
テレビのチャンネルを、ゴルフの中継から、水泳の飛びこみに変える。どんどん選手が登場して、どんどん飛びこむ。オリンピックなのに、もったいぶる感じが一切ない。まるで昼休みの大なわとびみたいだ。走って、飛んで、走って、飛んで。選手のしなやかな身体が、ものすごい恰好でぐるぐる回っては水の中に吸い込まれていく。きれい。
息子は、一人ひとりが飛びこむたびに、「あぶないね」「あぶないよ」「この人もあぶないよね」と繰り返す。私は、解説の言葉にしたがって、飛び込む瞬間の水しぶきに注目して、プールの水面を眺めつづけた。
できるだけ、何も感じないように。
気が付けばそうやって毎日を過ごしている。
旅行に行きたかったとか、息子と新幹線に乗りたかったとか、あの人とごはんが食べたかった、とか。
ワクチンを打てる人と打てない人がいるとか、選手村の医療が充実していて評判だとか、小児のコロナ患者にも入院事例が出ているとか、ウガンダに帰った選手はいまどうしているだろうとか。
自分が働いて息子が保育園に行くことで、誰かが感染するかもしれないとか。でも、私は働かなきゃ食べていけないとか。そんなことを考えながら、仕事だけじゃなくて、多少のお出かけだってしているとか。
これまでは、なんとなく常識というものを守っていれば、罪悪感や違和感に目をつむっていられる毎日だった。多くの人間の利害が、こんなにも目に見えて対立する現実の真ん中に、ぼーんと放り出されたことはなかった。見て見ぬふりが難しくなっている。
そして、それ以上に、自分のあたまの中の矛盾に、戸惑っている。
息子といろんなところに出かけたい思いと、コロナが収まってほしい思い。オリンピック選手が報われてよかったという気持ちと、なんで医療崩壊中にこんなことしているんだろうという気持ち。あまりにもずさんな政治に対する苛立ちと、もうこれは個人を憎んでも仕方ないのかという諦め。
今までは、矛盾した願望をならべて、それなりに優先順位をつけてゴリゴリとやってきたつもりだった。でも、いま筆頭にやってこようとする「コロナの感染拡大に寄与しないようにする」というのは、ちっとも楽しいことではないのにひどく難しいから、それだけを理由に何もかもを我慢することはもうできなくなってしまった。去年の四月と五月のようにはいかない。
だから、できるだけ何も感じないように。ただ確実なこと、マスクをするとか、手洗いをするとか、そういうことだけを考える。先の楽しみはあまり期待せずに、目の前の仕事と家族と美味しいもののことだけを考えるようにする。リスクの低いお出かけは、出来ることをしながら楽しむ。他のことは考えないように。
そんな私の横で、息子は、お風呂がいやだとひっくり返って泣いている。昨日は、からあげクンをひとりでぜんぶ食べたいと主張し、増量中なんだから一個ちょうだいと言ったら泣いて怒った。自分の要求が聞き入れられないのはおかしいと、真剣に怒る。とても眩しい。かわいい。でも、大人がみんなこうでは、たちまち殴り合いになってしまう。私たちは、ひとと生きていくのが大変な生きもので、だからこそ知恵を働かせなければいけないのだろうと思う。
*日記を再開しようと思います*
*本をつくりました→→「インターネットの外側で拾いあつめた言葉たち 二〇〇〇-二〇二〇」*
*その他こんなことを書いています*
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