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唐揚げと私とその他大勢の命

2022年2月25日、私は自宅から自転車で30分以上かかる八百屋さんを目指して自転車を漕ぎ出した。


唐揚げ弁当とおばあちゃん

八百屋さんは初めて行く場所だった。

途中お昼を公園かどこかで食べようと思い、自宅近くの店で唐揚げ弁当を買っていた。しかし、八百屋さん近くの公園がわからなくなってしまう。

自転車で30分以上漕ぎ続けたこともあり、空腹も限界に近かった。

しょうがなく近くの河川敷でお昼を食べることにした。

手を合わせてから唐揚げを頬張った。さっぱりとした肉が身に染みた。ポカポカとした春の始まりを思わせる日に外で食べれたのはよかった。

そして何より人通りが少なくてよかった…。だが、大葉を持ったおばあちゃんがこちらを見ながら階段を登っていた。

少し恥ずかしさもあって目をそらすように唐揚げを夢中で食べた。
すれ違いざまにおばあちゃんが私に声をかけた。

「おそとで食べると気持ちがいいでしょう?」

私は、そうですねと一言だけ答えた。同調するための言葉ではなく、本心からそう言える一言だった。


ニュース速報

弁当も終盤に差し掛かり、唐揚げが2、3個になった頃。
スマホアプリのニュース速報が流れた。

ロシアによるウクライナ侵攻で民間人を含む死者が出ているというニュースだった。

まず考えたのは、私がのほほんと自転車を漕いでいる間も、唐揚げ弁当を頬張っている間も、死の危険に晒される人々がいることだ。

そして次に、死んでもいい命は存在しないのにどうしてこんなことが起こってしまったのかと考えた。

いや「死んでもいい命は存在しない」のか?


私の過去と鶏

私は幼い頃から虐待やDV、人間関係に心を疲弊させてしまい、壊れたまま生きている。さまざまな支援を受けて生きているが、あまりにも迷惑をかけているという意識が強くなったがために

「私は死んで償うべき人間である。」

と歪んだ考え方をもっていた。

しかし、私は今まさに鶏という命を食べていた。
鶏は人間が生きるための食糧として育てられ、お肉にされている。
鶏は死んでもいい命でも、死ぬべき命でもない。
手を合わせて「いただきます」という行為はそういった命に対する祈りと生かしてもらっている感謝を意味している。

本当に死にたい人間であれば、わざわざ命をいただく必要はない。
店でお昼ご飯を買うこともなければ、遠くの八百屋さんに行くこともしなくてよい。
私は生きていくための行動をとっていた。
本当は生きていたいのだ。


「いただきます」と戦争

民間人を含む死者が出ているウクライナ。
ロシア側も死者が出ているという報道もあった。

双方に言えることは「死んでもいい命はない。」

食事をする前にいただきますと言うのは、人間が生きるために奪った命に対する祈りと感謝を表している。

この戦争で奪った命で対して、何もしないのか。

これは人間が生きるために必要な戦争であったのか。

その命は「死んでもいい命」ではない。


今の私にできること

生きていたい人も未来がある人もウクライナにもロシアにも日本にもどこに行っても平等に存在する。

その尊い存在を簡単に奪うことを許してはいけない。

力で国を黙らせる兵器を持つことや戦争を正当な手段として認めてはいけない。

この考えを持って意思表示し生きていくことが私にできることである。


ウクライナ侵攻で犠牲となった人々のご冥福をお祈り申し上げます。

外に出て、気持ちが良いと感じる日々を取り戻せることを願います。

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