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べつに仙人でもないし部屋ヴィレヴァンみたいだったし

   今朝、とある紳士服のお店の前を通ったら、修造が「着飾れニッポン」と太字で言っていました。要はそういう看板があったという話なのですが、私はそのなんとなくワールド杯かぶれしたコピーになんだか惹かれたのでした。(サッカー感動しましたね。にわかですけど)


   頑張れ!の勢いで着飾れ!と言っている。しかも修造が。着飾る必要なんて本来無いのに、だ。


   ファッションなんていうのは、TPOはまた別の話として基本どうだっていいことだし自己満足なわけです。正直言って、無駄です。それなのに暑苦しく着飾れと言われるその違和感こそがこのコピーの要なんだというのはわざわざ私が説明することでもないのですが、その通り、本来人間っていうのは衣食住において最低限満たせたら良かった。生きるために体温を保てる服と生きていけるだけの食べものと安心して住める空間があれば良かったはずなのです。しかし人間が進化する過程において、どんな服を着るか、どんなものを食べるか、そしてどんな家に住むかをアイデンティティとするまでになってしまった。


   というと、人間ってすごく馬鹿らしいみたいな話になりそうですが、私はそうは思わないので今日はそういう話です。こうしたいああしたいという欲こそが人間の楽しみだと思うから。べつにただ生きて死ねたらいいっていう無欲な仙人みたいな人がはびこる世の中でもないと思うのです。みんな自分の在り方とか心地良さとかを考えながら生きてる。


   私は会社を辞めてから、一気に自由になりました。一番わかりやすいもので時間の自由がありました。いつだったか、加藤茶が時間を無駄に出来るのが何よりの贅沢だと言っていたのをおぼえていますが、ドリフターズとは比べ物にならんただの一般OLでも時間の自由はずっと欲しかったし、辞めて初めて時間の贅沢というのを骨身に染みて感じたわけです。


   さて一口に「無駄にする」といってしまうと、いや無駄にしてはいけないだろと単純反応する人がいる。例えば昨日M-1で優勝したウエストランドが「人を傷つけるネタ」だということにそのまま反応した人が結構居た。ちょっと待ってほしい。人を傷つける笑いができる人は傷つけない笑いだって知っている。知っているからできるんである。そして実際人を傷つける笑いにはなっていない。それを知らない人が多すぎる。無駄にするということだって本来無駄にすることではない。無駄にするという概念は無駄にできないという側面を知っているからこそ大声で言えるのです。


   何かを無駄にできることは何よりの贅沢だと思います。自分の心を豊かにする贅沢。自分だけの幸せを追い求める贅沢。そこに他人の物差しは介入できません。誰がなんと言おうと、自分の幸せは自分で決めることができる。だから、そんなに服いらないじゃんとかそんなCD買ってどうすんのとかそんなにグッズ買い集めてどうすんの部屋ヴィレヴァンみたいじゃんとか例え誰かに言われたとて、気にしなくていいことだと思うのです。そういえばわたしはずっとそうやって過ごしてきたように思います。私の部屋、ヴィレヴァンみたいでした(実家)。


   無駄でいいやん。無駄最高。だって私が楽しいからです。ムダのない人生なんて窮屈で仕方ない。無駄のある生活こそ、私が本気で大切にしていきたいものです。


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