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日記:2024年6月20日 曇り

・公にアーカイブ化している以上、毎回、表題が日付と天気だけというのでは視認性に難がある上に味気ないかと思い、今更ながらにサブタイトル的なものを導入するか悩み中。当初は別にPVを伸ばす意図もなく、むしろ内向きな思考の垂れ流しを見られても困るくらいに思って消極的であったのだが、続けていくうちに物によっては人目に触れたい内容もちらほらと出てきた。ほんのちょっぴりでいいからサクセスしたい……そんな欲望がむらむらと立ち込めつつある。それは承認欲求よりもずっと、切なる想いで。

・真顔のエクセル/スリーズブーケ。そんなに時間は掛からないだろうと踏んでいたのに、やんごとなき事情から、令和6年にもなってまさかの手入力。泣きながらデジタル式のアナログ作業に埋没していった。ついでに知らない関数にも虐められて悲鳴を上げるなどした。全体的に20年前の事務作業って感じだったな。

・最近は新たに色々なコンテンツを掛け持ちして忙殺されていたが、その波も一旦は落ち着きを見せつつある。かといって今さら陳腐化してしまった元のソシャゲ界隈に戻る事も憚られるため、一周回ってX(Twitter)を眺める時間が増えた。といっても昔のように四六時中TL監視みたいな暇も情熱もないため、専ら学マスのファンアートや女性同士がプラトニックにお互いを慈しんでいるイラストなどを中心に、ぼんやりとただ眺めているだけだ。見てはいるが、視ていない。その間にも界隈を問わず日々、大なり小なり炎上案件もちらほらと伺えるが、いまやそこに口を挟む事への意義すら見出せなくなってきた。他人のいいね欄が覗けなくなった今、全てのことがかなりどうでもよくなってしまっている。

・Twitterの名称変更を境に、これまで“インターネット”的だと感じていた先人たちが軒並みフェードアウトしていく中、俺自身もアニクラや声優現場を通じてフィジカルの楽しさや動画配信コンテンツの強みなどを思い出してしまい、もはやテキストベースでしのぎを削る事そのものにどこか色褪せたような印象を禁じ得ない。或いはそうした文化圏の集大成こそが「ニディガ」であったのだろうか。もしくはそれが、これから咲くはずだった草花の養分さえ根こそぎしていったか。いずれにせよ、奇しくもにゃるら氏も書いているとおり、今こうしてnoteに思索を認めている事すら、その残滓に過ぎないのかもしれないと俺も密かに思い始めている。

・あれだけ血道を上げて執着していたソシャゲもインターネットをすら、特に未練なく切って捨てられる事に対しては自分でも驚きと呆れがある。もっとも完全に生活からパージした訳ではなく、その気になればいつでも戻れる余地があるからこその余裕とも言えるが。さながら卒業していったOBOGがかつての学び舎を慈しむような視線で、気が向けばふらっと帰ってきます。


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