![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/134254896/rectangle_large_type_2_922f9d326f7a70d7b071a2519c93e834.jpeg?width=800)
日記:2024年3月18日 曇りのち晴れ
・寒の戻りかとんでもなく風が吹き、バカ寒いのであった。コートを着て正解だった。どうにもつまらない拘りだが、「着てきて」とか「見てみて」みたいに同じ音が続くのがどうにも堪らず避けてしまう。
・昨日に引き続き筋肉痛で特にふくらはぎがバケモン痛く、もはや歩く事すらおぼつかないでいる。意外にも先日のイベントはオタ芸よりも圧倒的にツーステップを踏まされる機会が多かった。サブステージに関しては踏会議の主催と新レギュラーが揃ったのだから必然のなせる業という感じだが、それにしたって踏みすぎた。「テオ」とかメインのコスプレパフォーマンスでも流れてたし。
・今週の水曜が祝日だというので朝から浮かれていたら、土曜日に異動するスタッフの壮行会をやるというので無事に駆り出されることが確定してしまうのだった。プラマイゼロ、むしろマーイ。
・現実に生きる人間は創作物のキャラクターではないので、一貫性や特定の正義などといった枷で自身の在り方を規定する必要はない。というより必要や善悪云々の前に実際問題、そのように生きるのはとても厳しく、まさしく原義的な意味での求道に近い。世捨て人、或いは余程ストイックな信仰を持った敬虔な信徒でもなければ、文明社会においては息をする事さえもままならないだろう。「信念に"殉ずる"」とはまことよく言ったものである。俺自身も長年に渡ってそれを貫こうとひたすら足掻き、都度に至らぬ己の不明を恥じながら、あまつさえ他者にすらそのように在るべきだと強いてきた結果、今までとてつもない目に遭ってきた。
・遍く世の有象無象、凡百の徒は己の一挙手一投足とそれがもたらす結果について、良くも悪くもいちいち深く考えてなどいない。彼らは社会に適応する過程で無意識にでも、考えるという事自体がとてつもなくしんどい行いであると理解しているから、むしろ必要に応じてスイッチを切り、己を殺す術に長けている。「脳死で〜」という昨今では物議を醸すスラング的用法があるが、知性体としての活動放棄を広義の死と捉えるのであれば、彼らはまさしくその瞬間「脳死」しているのである。そのため自分で言うのもなんだが日々の出来事のほぼ全てに思索を巡らせ、しかもそれを文字に起こすなどしている時点で、世間から見れば俺も立派に異常者の仲間入りである。
・上記のような言説は、自分以外の個々人がなんらかの信条を持って生きている事実をまったく否定するものではないが、それでも多くの場合、社会生活を営む上でどこか妥協する必要に迫られている事だろう。つまるところ人は信念を持って生きるべきとかそういう事以前に、単に現実的な話として、一貫性に殉じるだけで人ひとり満足に食っていけるほど余裕のあるリソースを今世紀の人類は持ち得ていないというだけの事である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?