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「政治に興味を持つのってめんどくさいよね」という偽らざる本音について

1日の仕事を終え、帰宅の途につく。オフィスを出るとイヤフォンを耳に入れ、radikoでナイターを聞き始める。僕のお気に入りチームは好調だ。今夜もリードしている。

自宅につき夕飯を食べたら、子供たちと風呂に入る。遊び足りないとごねる彼らに適当なクイズを出題するなどしながら、夢の国へと送り出す。

リビングに戻ると、まだナイターは続行中。一頃は炎上を繰り返していた中継ぎ陣も現在では安定し、心安らかな気持ちでゲームセットの瞬間を見届ける。試合が終われば野球ファンなら誰でもしているであろう”反芻タイム”が到来する。

試合ダイジェスト、ヒーローインタビュー、監督インタビューはもちろん、実況スレのまとめ記事から果てはradikoのタイムフリーを使って良いシーンのアナウンスを聞き返し、勝利の余韻に浸る。興がのれば缶ビールで乾杯し、歯を磨いて布団に入る。

一分の隙もない幸せな一日である。

これはこれで特に問題ないはないんだけど…

昨年の5月に転職するまで僕は政治系のニュースサイトで仕事していた。そのため、日々の情報摂取も政治や経済、社会問題に関するものが中心だった。

世の中は悲しいニュースであふれている。世界では紛争が絶えず、国内でも悲惨なニュースが相次ぐ。Twitterを開けば、大小様々な”炎上”が日々発生し、消費され続けている。

業務の都合上、僕は毎日それらをチェックし、時に専門家に解説記事を依頼し、時にインタビュー取材に出かけた。

仕事は楽しかったし、業務に不満もなかった。ただ、そういう日々の中では、読むだけで気分が悪くなるような情報に接せざる得ないことも事実だった。政治家や識者同士の諍いや、誰かの不愉快な言動を目にした結果、自分の良い気分が台無しになることもあった。

例えば、飲食店に入って料理に舌鼓を打っている際に、横で店主が店員を怒鳴りつけていたらどう感じるだろうか。せっかくの美味い料理も台無しになってしまうだろう。これまでTwitterを眺めていて、同じような気分なったことが数えきれないほどあった。

なので、僕は転職を機に、自分のフォローリストを見直した。見識に見るべきものがあっても、口汚く対抗勢力を罵る政治家や、敬意を書いた論評を繰り返す論者をまとめてアンフォローした。すると、どうだろう。僕の生活は冒頭のようなさわやかなものに変化したのだ。

今の状況には何の問題もない。良いことしかないじゃないか、とも思う。ただ、時に疑問を感じたりもするのだ。

僕自身、過去の仕事の中で、日本における選挙の投票率の低さを嘆いてきた。時に若者向けに選挙に行くようにと啓発するような記事も書いてきた。『政治は自分の日常生活につながっているのだ』というお題目を読者に説いてきた立場だったのだ。

そんな自分がどうだろう。自分の仕事と関係なくなってしまえば、「政治」という「己の気分を損ねるもの」から距離を置こうとしている。僕は自身の態度の変容もって、「政治や社会問題に関心を持つ」ということが、いかにめんどうくさいことなのかというのを実感してしまったのだ。

最低限のラインとして選挙に行くぐらいのことはするだろう。ただ、己の精神衛生上よくないことを自覚しながらも、転職前と同じレベルで政治や社会問題への関心を持続できるだろうか、と問われれば難しいと言わざるを得ない。

一市民として、民主社会を構成する一員として…。そんな1ミリも心に響かないようなお題目は思いつく。あるいは、「消費税廃止」ぐらい思い切った政策を打ち出す政党が出てきたら、新たに関心を抱くかもしれない。

ただ、Twitter上で日々繰り広げられる左右の対立、罵詈雑言の応酬を見ていると、「こういうめんどくさいものからは距離を置きたいな」と思ってしまう自分がいる。しかし、一方で「それは仕方ないことだ」と諦観することを拒否する自分もいるのだ。

「政治なんて俺たちに関係ないよ」という一言は、それを発した者にたいする権利剥奪の宣告である。政治は、それを蔑視した者にたいして、かならず復讐するのだ」

『銀河英雄伝説10 落日篇』

いま僕はそんなジレンマの中にいる。オチは特にない。


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