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Footchy Cooks"ランプの惑星"の歌詞考察【気狂いピエロのネタバレ有】

いつも愛読ありがとう😊。音楽愛好家の悠真 Suzukiだ。
今回は注目の札幌の大学生バンド「Footchy Cooks」の2nd EP『Lonesome No More!』の二曲目、"ランプの惑星"の歌詞について考察する。作詞はVo.Gt.の中村文哉で(レコチョク情報)歌詞はレコチョクで公開されているものから確認した。
是非最後まで。

ドゥビダビダディダバダ
ドゥビダビダディダバダ

ディキダンダンのリズムでそう
僕らはちょっと伝わらない
神様の気まぐれなんてな
偶然は海岸で待つ
ディキダンダン鳴らしていく
光る窓と暗い部屋
いつでもそう 用事はあるのにドアのカギをかけてしまう

単純で明快な正解はないんで
大胆な衝動は最終バス
ちょっと飛び乗った

ドゥビダビダディダバダ
ドゥビダビダディダバダ

ディキダンダンのリズムでそう
僕らはちょっと伝わらない
神様の気まぐれなんてな
偶然は海岸で待つ
ディキダンダン壊れてゆく
軋む音あれもこれも
デタラメな人形を描いても退屈な思い出になる
簡単に毎晩は流れてくんだ
わかろうと思うほど僕は誰かになる
もうあの体温 感覚 声だって
今日解放するんだ 元あった場所へと

https://recochoku.jp/song/S1019492819/

歌詞の内容を整理すると、「僕」の一人称で語られていて、「僕ら」といった表現からもう一人以上登場人物がいる。
「伝わらない」「わかろうと思うほど」という歌詞はこの曲のテーマに深く関わってくる。
ストーリーの注目する点は、最後のディキダンダン「壊れていく」、「解放するんだ またあった場所へと」といった描写であり、「僕」が伝わらなかったことで壊れる話であるとわかる。

このストーリーラインの映画を私は知っている。ジャン=リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」である。
この映画の概要を説明する。最初パーティーで再開した男と女が今の生活から逃れたいことで合致し盗難車で社会から逃げて海へ向かう。中盤で海辺での暮らしの中で話が噛み合わない場面が多くなり、女は社会へ戻る。終盤では女に騙ていた男が女を撃ち、男も顔にダイナマイトを巻き自殺する。

この映画に類似していることを前提に歌詞を再び見ると気づくことがいくつかある。
「偶然は海岸で待つ」
「単純で明快な正解はないんで」「大胆な衝動は」「ちょっと飛び乗った」
「デタラメな人形を描いても退屈な思い出になる」
「簡単に毎晩は流れていくんだ」
「わかろうと思うほど僕は誰かになる」
「もう あの体温 感覚 声だって 今日解放するんだ 元あった場所へと」
「ディキダンダン」「壊れていく」「軋む音あれもこれも」
これら一つ一つについて、「気狂いピエロ」との共通点について考察、説明する。

「偶然は海岸で待つ」「簡単に毎晩は流れていくんだ」
この二つについては単純に映画の描写を説明している。
映画で男と女は海に行きたくて行ったのではなく偶然ついている。その海辺での生活は目的のあるものではなく、簡単に過ぎ去って行っていると言える。

「単純で明快な正解はないんで」「大胆な衝動は」「ちょっと飛び乗った」
これは映画序盤、パーティーから抜け出す男と女、そしてその後女の家から車で逃げるシーンと繋がる。
そもそも男は家族(パートナーと子供)があることが冒頭のシーンでわかるが、文学に興味のある男に対し、見た目やパーティーに関心のある奥さんですれ違っており、男は今の生活に満足していないことがわかる。家族を捨てて家を出ることは正解ではないが、つまらない生活に身を置くことも正解とは考えられない。また、この考え方はヌーヴェルバーグと呼ばれる映画群に多くみられる。
また、次のシーンで女の家に当たり前のように中年男性の死体や銃があり、これも正解が一つでなく、単純明快でないことを表している。
そんな中で、同じようにパーティーに飽き飽きしている、以前付き合っている女に再開し、衝動的に動いてしまう。
男にとっては衝動的にちょっと飛び乗っただけで女のあれこれに巻き込まれてしまうのである。

「デタラメな人形を描いても退屈な思い出になる」
これは中盤、お金を稼ぐためにアメリカ人の前でデタラメな寸劇をするシーンを表している。このシーンでは、本を読むことが好きで、思慮深い男も軍人のアメリカ人を喜ばせるためにアジア差別的で短絡的な寸劇をしている。つまり、このシーンでの男はお金を稼ぐためだけに寸劇をしているだけで、物語の本筋に関係のない退屈な思い出にすぎないのである。

「わかろうと思うほど僕は誰かになる」
一番分かりやすいのは、最後のシーンで男が顔に青のペンキを塗っているシーケンスで、誰かになろうとしている。そのほかにも、女の兄(本当は恋人)の代わりに人を撃ったようにさせられるシーンや誰かの言葉の引用で難しいことを言っている数々のシーンなど、女のことや真理などをわかろうとするほど自分でないものになってしまっている。

「もう あの体温 感覚 声だって 今日解放するんだ 元あった場所へと」
最後男はダイナマイトで自殺をし、カメラが空を写して終わる。これはしがらみから解放されたとも捉えられる。自殺する前に家族の元へ電話をかけている。元あった場所への未練や関心があることがわかる。
ちなみに、この電話で男は「いや誰でもない」と言っていることから、自分ではないものになっているということを表現している。

「ディキダンダン」「壊れていく」「軋む音あれもこれも」
ここではディキダンダンが繰り返されていることに注目する。終盤の主人公の男が、BGMとして流れている曲について言及する男と会話するシーンがある。そこでその男は過去の恋愛について話し、いつもそのBGMが流れていたことを語っている時におかしくなってしまう。
この歌詞はここのシーケンスへの目配りとも考えられる。

「気狂いピエロ」と比較することで、この曲では「分かり合えない」ことだけでなく、「僕」が最終バスに乗ってどこかへ逃げたり、最後解放され、元あった場所へ向かっていることがわかる。

この曲で中村文哉さんは分かり合えないことを過大評価し、振り回され、社会から逃げたり戻ったりする若者を表現している。
この曲は一聴しただけではわからないが、ネオアコなどのインディーロックに見られるような若者の苦悩の曲である。Aztec Cameraのように、明るい曲調でありながら、シンプルなご機嫌ソングではない。リズムが強く、ノレる曲でありながらダンスについて、パーティーについて、ではなく深刻で明確なテーマがあるこの曲はFactoryのバンドの様でもある。普段洋楽しか聴かないような音楽ファンへも強くお勧めできる曲である。

作詞の中村文哉さんはFilmarksを確認したところ、「気狂いピエロ」を視聴済みであったが、影響を言及はしていないので、あくまで私の考察である。

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