レコーディング、、、

今更言うことでも無いが、カメラという発明は偉大なものだった。"その瞬間"を2次元的なものとして長きに渡り保存することが可能な技術。その後はカメラ自体もそうだが、携帯電話、スマートフォンの発明により、より写真や動画を記録しておくことが身近なものになった。
僕は頻繁にスマホカメラを対象に向ける側の人間だ。人にさえ向けたがるが、嫌がられる場合が多いので諦めて一緒に食べたものや一緒に見た景色を代わりと言ってはなんだが多めに保存する。
保存したはいいものの、頻繁に見返すということはなかなかしない。地続きな日々の中で、過去のものではあれど最近の鮮烈な記憶として脳に焼き付いていると思い込んでいるからだ。しかし、気が付かない間に遠い過去になってしまって詳細を思い出せなくなる。だから見返すのはそんな風にして過去になったことを知覚してからが多い。そうすると、写真や動画といったものが、その瞬間を記録出来ているようで全く記録出来ていないことを思い知らされる。限定的な画を切り取ったものだからこそ、その前後の文脈が抜け落ちてしまったそれを見たところで、全く内容が理解出来ないことがある。読んでから相当時間を於いた小説を栞を挟んだところから読み始めた時と同じように、何がどうなってその瞬間を迎え、どうして僕がそれを記録しようと思ったのかということをまるで思い出せないことが度々ある。そうした文脈が分からない写真や動画を見つける度に、凄く悲しい気持ちになる。写真や動画に残さなかったら、それはそっくりそのまま自分の記憶から完全に抜け去って行ったかもしれない。あるいは、何かのタイミングで、誰かに言われて全体像をそっくりそのまま思い返すことが出来るかもしれない。しかし、部分的な記録というのは時間軸を無視したヘンテコな記憶を脳内に作成する。誰かに話を聞いた時、「あ、この写真はその時のものだったのか」という、不自然な記憶体験をする羽目になる。記録するべきだと判断した美しかったはずの出来事を、時間軸に乗らない歪な記憶に換えてしまうのなら、いっそ残さない方が美しいままの状態を維持することが出来るのではないかとすら思えてくる。
アカシックレコードという概念がある。アカシックレコードとは、宇宙が誕生してから現在までの全ての出来事や感情をそのまま記録した空想上の記録媒体のことである。僕が望むのはまさしくこのアカシックレコードの個人版みたいなもので、思い出を残すのであれば文脈まで残したくなってしまう。人の脳というのはそういう意味で、生まれてから一度も途絶することなく記録することを続けている質の低い個人版アカシックレコードである(忘れっぽいだけでなく思い出したものを出力した時の解像度も大変貧相なものである)。ボケ防止のためにも、若いうちからこのポンコツアカシックレコードの性能を少しでも上げて、何でも写真や映像に残す時代に、思い出の形を壊さない保存方法を模索してみるのが良いのかもしれない。写真や動画には、その時の思い出が思いの外残らないのだから。

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