2022年7月12日

昨日の投稿で、日記を始めて10日連続の投稿だった。だいたい日に2,3編書いて上げてきたから、30程度の話を絞り出してきたことになる。
10日続けて思ったのは、こんなのは毎日やるもんじゃないなってことだ。あまりにもエネルギー消費が大きすぎる。活字がそんなに得意じゃないのは11日くらいに書いた通りで、1日に起きたことをどう咀嚼して事象に心象を絡ませるかみたいなことを言葉で行うことは結構疲れる。あと、自分と向き合う時間が長くなるというのも大変なことだ。僕は自分の悪いところばかりが見えてしまうので、良い所を探すのにその何倍もの時間をかけ、それを少しは文章に表してきたつもりだ。まだ手応えはそんなに良くないが。
しかし収穫はあった。単純に、書くという作業が日常に増えたのでQOLは上がった気がする。昨日のご飯すら覚えていられないくらい記憶力のない僕だが、ここに書いた内容のことは大体覚えているので生活に彩りを与えてくれているのだと思う。またありがたいことに、こんな日記を読んでくれている人がいる。僕の中では一応『自分が自分の書いた文章の読み手になる。』をコンセプトにしており、推敲して投稿する瞬間までの工程に重きを置いているわけだが、その投稿したものを誰かが見てくれているというのは浅い承認欲求がほわっと満たされて悪い気はしない。投稿と同時に大学用のTwitterアカウントにリンクを投稿しているので、いつも同じ部屋で講義を受けている人が読んでいると思うとどこか面白い気分になる。これからも気が向いた時に読んでくれると僕は分かりやすく喜ぶだろう。
初日に堅い文章を書いてしまったから、以後ずっと同じ堅い語調を貫いてきている。意識的にちょっとだけ緩めてみた箇所が幾つかあるが、全体的にダ・デアル調だ。日記・エッセイを気軽に投稿するのならこの語調は不適切だと思うし、実際これのせいで自分は使える語彙が縛られてしんどい思いをしている。別に緩い文章が書けないという訳ではなく、「〜みたいなことがありまして。私思ったんだよね。〜」という口ぶりの日記にしても良いのだが、この手の文章は推敲が難しい。というのも、まだまだ技術がないので、「これは読んで伝わらないんじゃないか。」という表現を避けるように直しを入れると、緩い文体の文章は丸ごと赤が入る対象になってしまう。ダ・デアル調で説明的な文章を書くというのは、難しい書き方をしているようで実は一番簡単なことだと思う。note内に無数に存在する日記・エッセイはそんなことを考えず走り書きしてそのまま世に放った生の文章で溢れかえっているからダ・デアル調の文章なんて無いが、読み返して直して良いものにしようとすると堅い文章になると思う。もしくは曖昧な書き方のままで伝えられる程にワードセンスが良いかのどちらかだ。
だから今後、もっと文章が上手くなった暁には文体を崩したフレンドリーな文章にもチャレンジしたい。テキストの媒体なのにノンバーバルな表現というのも矛盾した話だが、根詰めた説明ではなく言葉からにじみ出る雰囲気も含めて伝える文章を書けるようになりたい。まだ暫くはこの調子だが、少しずつ文を作ることに慣れていけたらなんてことを思う。


先週卵の下端を割って腕の元を切断したニワトリ胚は、頭部の発達が未成熟だったことから一週間もたず絶命した。一週間生き残った子は、今日卵から取り出して分離し、切断した腕を観察した。観察しているうちに絶命した。
発生生物学に関する実験である。ニワトリは、発生生物学のモデル生物学として長年研究対象として利用されてきた歴史がある。座学では実際の写真やそれを元にした模式図などを見ながら学ぶので、実際に組織を染色したものを見にするとなかなかに感動した。一方で、そのために相当数のニワトリが犠牲になった。実験が成功しようが失敗しようが、使用されたニワトリ胚は全て絶命し処分された。
生命倫理の問題については、大学でわざわざ生物を専攻するまでもなく幾度となく取り上げられ考えてきた。ヒトを使う実験は多くの人が絶対に許さないと言うだろう。人権があるからだ。ではサルではどうか、イヌではどうか、ニワトリではどうか、植物はどうか、微生物はどうか。ヒトから離れれば離れるほど、「別にいいでしょ。」と言う人が増えるのは想像に難くない。僕は今回ニワトリ胚の実験に若干の抵抗こそ憶えたが、それでもこれは必要な操作で、今後ニワトリ胚から何か明らかになることがあるかは分からないが、研究対象として必要だと思う。しかし、僕もまたヒトはちょっと…と思うので、この線引きはいかにも個人的というか、感情的なものだ。
倫理的な問題というのは、様々な話題に常に障壁として立ちはだかる。エネルギー問題にしろ、科学技術の発展にしろ、国防問題にしろ、何かと倫理による抵抗がはたらいている。心のない人がそんなものは足枷でしかないと言うかもしれないが、僕個人の考えでは倫理観による障壁はなくてはならないものだと思っている。あまりに感情的で、議論そのものを停滞させてしまうものは好ましいと思わないが、倫理がある中で納得を社会に求め続けるのも科学のひとつの仕事だと僕は考えている。
科学を学ぶというのは、直観的な目的論的世界観から論理的な機械論的世界観へと世界の見方を変える営みだとここ最近感じている。その過程は非常に地道で、煩わしく、理不尽で、腹の立つ、訳の分からない、つまらないものだ。人と人との間の衝突も避けては通れない。そんな営みに挑戦し続けることは、科学を手にした人類のアイデンティティのひとつだと思う。
そんなことを考えながら、部屋の中を飛び回っていた蚊を叩き殺した。

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