2022年8月20日

慕う感情を、いかに直接的な表現を避けつつ象るか。それがリリックの本質な気がする。目の前に広がる物理現象を文字媒体に写すことも立派な表現術の役割だが、行き着くところは非物質的な「心」を、ありふれた表現ではなく自分の言葉で言い表す営みが書くということなのだろうと思う。そのために歴史の中で歌人達はエネルギーをそこに費やしてきて今の文芸に至る。何万人もの表現者が書いてきたものはどれひとつとして同じものなどなく、それぞれがそれぞれの感情を独自に象った証だ。
いつの世も恋愛ソングは聞かれ続けている。世相を反映してスタイルを変えながら需要に応え続けている。一言で言えば「好きだ。」とかそんなものになってしまうが、どれひとつとして同じものなどない。全てが違う「好きだ。」という感情だ。
僕は恋愛ソングが好きじゃない。誰かを好きだとか好きじゃないとかそんなことは関係なく、恋愛ソングは決して僕の心をなぞらない。生き物として特に大事な感情だろうという特別視をしているからか、他人の言葉がそこに入り込もうとしてくるのが気に食わなくて排外してしまう。「お前の歌が俺の感情を代弁出来ると思うなよ。」などと変な意地を張ってしまう。簡単に恋愛ソングに共感する人を見て哀しいと思う。
他の感情については鈍感だが、せめて自分の恋愛感情だけは自分の言葉で捉えていたいという願望を抱いている。それが叶う感受性と語彙力を現状持ち併せているとは思っていないが、それを叶えようというのはひとつの目標になりうるほどの価値を持つと思う。オリジナル、アイデンティティの追求だ。
ジンテーゼの創出にはテーゼとアンチテーゼの衝突が不可欠なように、僕のアイデンティティの創出には他人の響かない言葉と僕の抵抗が欠かせない。つまりもっと、他人の言葉を読んで聞いてしなければいけない。集合の外側を否定することで集合の輪郭を浮かび上がらせるという手法は遠回りに見えるが、その実それ以外に「捉える」方法なんて無いように感じる。
僕は不器用だから、緩急の「急」を最後に差し込みたい人間だ。いかに遠回しな「緩」い表現で上手く書いたとしても、結局の所「急」をズバッと投げ込めないと美しくない。直接的な表現を避けて象る業、そしてそれが台無しになるんじゃないかというほどの真っ直ぐな力。変化球の変化量が大きく球速が遅いと、その後の直球が決まりやすくなる。この落差が欲しい。
何の話をしているかだって?今日は甲子園の準決勝の日だ。恋も野球も似たようなものだと思う。


朝、結局3時間くらいしか寝ていない中でテレビをつけて甲子園を見始めた。第1試合は2回にしてもう勝敗を決しそうなほど点が開いてしまったから、そこから暫くはちょっと寝てしまった。しかし目が覚めてスコアボードを見るとその2回の猛攻を除けば2チームに大した差はなく、もう一度やっても仙台育英高校が勝つとは限らなさそうだった。もちろん点差が開いた状況と開かない状況とでパフォーマンスは上下するだろうから一概には言えないことだが。
案の定時間をかなり押して始まった第2試合は打って変わってしばらくの間目が離せない接戦だった。大阪桐蔭高校を根性で破った下関国際高校に肩入れしていたが、近江高校の立て直しにも注目していた。両校とも先発投手の立ち上がりがイマイチで、つけ込みつけ込まれのシーソーゲームとなった。だが下関国際高校は早々とピッチャーを代え、近江高校は攻守のテンポで調子を上げていき、互いに譲らない熱い展開になって行った。非常に残なことにゲームが動き出した6回表まで観てアルバイトのために家を出る時間になってしまったのでそこから先が観られなかったが、結果的にはそのまま下関国際高校が勝利を収めたようだ。
決勝戦でぶつかる仙台育英高校と下関国際高校はどちらも強豪校ながら甲子園で優勝したことがないそう。どちらが初優勝を手にするのか今から楽しみだ。

楽しみだが、そうではない。後半戦試合が動き出したタイミングで家を出なければならなかったことに腹を立てている。お客さんには申し訳ないが今日は終始気が立っていたので適当な接客をしてしまった。序盤で切り上げなければならないというのであればこれほどモヤモヤした気持ちにはならなかっただろう。本当に残念だ。ただ、決勝はアルバイトの後にあるので定刻通りならばちゃんと始めから終わりまで観られる。熱線を期待している。

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