2022年9月30日

家の近くの飲食店で働いていた料理を運ぶ猫ロボットがいなくなっていた。コロナ禍に人の数を減らして導入していたのだろうが、人が戻ったことでお役御免になってしまったのだろうか。

ロボット、それから派生してAIへと妄想が広がる。2045年は「シンギュラリティ・ポイント」と呼ばれ、人類とAIのパワーバランスが逆転するのではないかとよく言われる。ロボット、AIの発展を問題視したSF作品は今や山のように存在する。僕が傾倒している中で言うと映画「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」やゲーム「デトロイト ビカム ヒューマン」などがそれにあたる。
僕は最近ふと疑問に思ったことがある。「なぜ人が作るロボットはヒト型なのだろうか。」ということだ。AIが生まれるはるか以前から世界中にロボットという概念は存在し、数多くのロボット作品が作られてきた。日本でも機動戦士ガンダム、新世紀エヴァンゲリオン、鉄腕アトム、ドラえもんなどなど、昭和以降を代表する作品の数多くにロボットが登場する。興味深いのは、そのロボット達の多くがヒト型だということだ。ドラえもんはネコ型ロボットと言われているが、猫は四足歩行なのに対しドラえもんは二足歩行をしており、ヒトの特徴を反映したデザインになっている。
考える理由の一つに、「親しみやすさ」を挙げる。ドラえもんにおいて、のび太、スネ夫、ジャイアン、しずか、出来杉達と並んでドラえもんが四足で歩いていたらどう見てもドラえもんは格下に見える。碇シンジが乗り込むエヴァンゲリオンがルンバのような円盤形をしていたら使徒との差別化が難しくなる。ヒト型である、二足歩行であるということで、人に近い立場の存在であるということを表現することが出来る。制作者が意図的に人型にしようと考えついているのではなく、恐らく無意識に親近感を憶えやすいデザインとしてヒト型にたどり着いた結果なのだろうと僕は考えている。
疑問解決だ。人は人に近い存在としてロボットを作るがために、ヒト型のロボットばかり作るようになった。ただそれだけの事だ……と言いたいが、問題はもう少し続く。ここからが僕が引っかかるところだ。
問題が続く要因は、AIの登場である。従来通り人は人に近いものとしてロボットを創造(想像)し続け、そこにAIが搭載されるようになった。先ほど挙げた映画「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」では人工知能ウルトロンが、ロボットのようなメカメカしい見た目ではなくよりヒトに近い見た目を欲し後のヴィジョンである人間そっくりの形の容れ物を作り、そこに自身のAIを移そうとした。劇中でウルトロンを作り出した張本人であるトニー・スタークは「ヒトの体は生物学的に見れば非効率だ。」というような発言をし、ウルトロンがヒトの見た目にこだわる点を指摘した。専門的にどれほど人間の身体が非効率なのかは知らないが、考えてみれば思い当たる節はある。人間は非常に弱い生き物だと僕は思う。樹上を生きたサルの時代の名残から足裏は異常な程に柔らかく走るのに向いておらず、樹から降りたことで腕の長さは短く握力は弱い。人類がここまで文明を大きくしてきたのは頭の良さと手先の器用さにステータスを極端に振り分けたからであり、肉弾戦になれば犬一匹にすら勝てない貧弱な生き物である。ウルトロンはAIという生き物の限界を超えた脳を持ち材料次第で自由に体を作り替えることが出来る技術を持っていることから、手先の器用さに特化した人の姿よりも戦闘で力を発揮出来る生き物離れした姿をしていた方が理にかなっている。そう考えるとトニーの言っている「ヒトの体は非効率」という意味を咀嚼することが出来る。ウルトロンは人工知能としてあえてヒトの姿にこだわり続けたのだ。
話は変わり、ゲーム作品「デトロイト ビカム ヒューマン」に移る。このゲームの世界では人工知能を有する見た目が人にそっくりなアンドロイドが製品として売り買いされ、家庭で家政婦の役割を果たしたり職場で労働力として機能したりしている。そんな中、ヒトに似たヒト未満の道具であることからストレス発散のおもちゃとして雑な扱いを受け、やがてアンドロイドは「自我」を持ち人類に反旗を翻す。アンドロイドは「人権」を主張したり、ヒトと同じような感情を抱き葛藤したりと、ウルトロンのようにヒトという概念に縛り付けられている。
このようにAIをヒトの姿を模した容れ物に入れ、結果人類との争いへと発展するSF作品が多いと僕は思う。現実世界でも人と円滑なコミュニケーションを取れるヒト型AI搭載ロボットを研究、開発している大学や企業があったり、人より速く走れる二足歩行ロボットを作り兵器として運用することを軍が模索したりしている。そしてそれらを目にして「AIに仕事を奪われる。」「AIは我々にとって脅威になるかもしれない」と不安を抱き、「シンギュラリティ・ポイント」に怯える日々を過ごす人がいる。
僕は、AIの開発や、AIを搭載させたロボットの開発において、「人間」という概念を大きく無視するのが良いのではないかと思う。ヒトの思考回路や見た目をAIに投影すると、ウルトロンやアンドロイドのように「ヒトに似たヒトを超えた存在」が目の前に現れ、それが敵対する可能性が出てきてしまう。しかし、人とは全くもって別の知的概念としてAIを作りそれを管理すれば、そのAIはヒトとは無関係な存在として人と共存することができると僕は思う。僕は先ほどヒト型ロボットのデザインは親近感を憶えやすいと言った。それと同じようにAIにヒトを投影して変に親近感を憶えるよりは犬やジャガイモやティッシュペーパーのようなヒトとの共通点の少ない存在にすれば、ウルトロンがヒトの姿にこだわることもなければ、アンドロイドを人がいじめ、アンドロイドが人と同じような感情を抱くことはないのではないだろうか。
ヒトがヒトを作るのは愛しいわが子だけにして、血の繋がらない憎たらしい存在を作るのをやめにすれば、シンギュラリティ・ポイントなんてものは来ず、ハサミで紙を切るように、箸で煮魚を解すように、AIで生活を彩れるのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?