2022年7月9日

Tyte A

ソラマチで開催されていた「キモい展」に行った。
キモい動物を集めた展示だった。僕は最初存在を知った時、「人がキモいと思うだろうなぁと思う生き物を展示して、見に来た人が想定通りキモいと思いリアクションを取る」という俯瞰的なモデルがとても面白いだろうなぁと感じた。「どんなキモい生き物がいるのか」より、「自分(や周りの人)は主催者の思う通りにどうキモがるだろう」みたいな関心があった。ひねくれていると言われればそれまでだが、ひとつメタまで楽しんでやろうというのはいい心意気だと思う。「こういう展示を見てキモがる人間は浅ましい」みたいな醒めたひねくれ方より、おそらく生きやすいと思う。いいひねくれ方、とでも自画自賛しておこう。
感想はと言うと、面白かった。900円の価値があるかと言われると微妙だが、こうでもしないと得られない体験ではあった。この辺がお金の難しいところだ。
題名通り、展示物はキモい生き物が多かった。ヘビのように四肢が無いトカゲ、小さく密集した幼虫、日本人の永遠の敵であるゴキブリなど。僕は虫が嫌いなので、ガラス越しでなく自分の目の前にいたら間違いなく飛び上がる自信がある。空も飛べるはずだ。ただストラクチャー自体が嫌いなわけではない。安全が確保された環境での観察はむしろ好きだ。だから、キモい以前に面白いと思った。変に首が長い亀、おどろおどろしい模様を持つトカゲ、苔に擬態したカエルなど、キモがる楽しみ方ではなく普通に食い入るように見ていた。だから900円の価値はなかった思う。キモがりきれなかった。普通に楽しんでしまった。もっと刺激が欲しかった。まぁそんなことを言っても仕方がない。面白かったから良い。
ショップには昆虫食が売られていた。食用に揚げたコウロギを食べてみた。味はイケる。「炒り豆の皮を食べてる気分」と形容した。昆虫食は初めて食べた。普通に生活しててチャレンジする気にはなれないので、こういう機会にトライできて良かった。別に積極的に食べたい程のものでは無いが、言われているように代替食としての可能性を感じた。

キモい展の後、浅草に行った。単に解散するには時間が早すぎただけで、特に何をする目的があったわけでもなかった。ただ知らなかったのだが、7月の9日と10日はほおずき市と言われる催しが行われ、ほおずきの出店がものすごく多かった。これは7月10日が四万六千日の功徳日だからだそうだ。ニアピンでほおずき市、四万六千日の功徳日を楽しめた。
気温はそこまで高くなく、日も長かったのでとても過ごしやすかった。一足早い夏祭りだった。僕は夏祭りのちょっとダレた感じが好きだ。ハイテンションという訳では無いが、程よく浮かれている感じ。多くの人にとって夏祭りといえば花火なのだろうが、僕は花火よりも花火の前後の形容しがたいフワフワした空気感が楽しいと感じる。どう見ても衛生状態の悪そうな肉料理、ぼったくりにも程がある砂糖菓子、ここ以外でどこに売ってるんだろうと不思議になる謎の郷土料理、生々しく時間を感じる10年ほど前流行った玩具など、この街は程々の気だるさと勢いだけで生きていた。ここ数年、コロナ禍のせいで祭に行くことがなかったから、あてもなく練り歩いて生産性の無い話をする夏祭りを久々に体感した。少し若返ったような気がする。
御籤は凶だったので、結んでしまった。何が書いてあったかはもうあまり覚えていない。とにかく悪かった。だから、唆されるようにして雷除けとかいう2日間限定の御守りを買ってしまった。具体的に何が他の普通の御守りと違うのか全く分からないが、不幸から僕を守ってくれるそうだから、期待せず飾っておこうと思う。しかし、現在進行形で置く場所がなくて困っている。本当に守ってくれるのか、この先が不安だ。

久々に息抜きをした気がする。気持ちのいい疲れに襲われている。明日からもそれでお願いしたい。


Type B


人と話すのが苦手なのかもしれない。接客業で愛想笑いが上手くなったり、ちょっとした雑談に素早く切り替えせるようになったり、話す能力そのものは日々向上している気がする。思春期にやさぐれた部分が徐々にいい方向に変化してきてかなり大人びたと思うが、人と話すのはいっそう下手になってきたかもしれない。話す能力は上がったが、話すのは下手になってきた。
もう少し具体的に言うと、押し引きの加減の調節がとても下手だと感じている。「この人とはこういう話し方をしよう。」と決めてしまって、柔軟なコミュニケーションがとれてない。話し方を決められるようになったというのは間違いなく大人びてきたという所で、人の特性を理解して自分のポジションを変えるということを少しずつ覚えてきた証拠だ。昔の僕なら漠然とした親密度による調節くらいしか出来なかったが、今ではひとりひとりに対応する『僕』を作り出せる程になった(言い過ぎかもしれないが、そういう感覚がある)。『対〇〇用僕』を僕の中で作り出してしまって、インフレキシブルなそいつがマニュアル通りに人を捌いている。
思うに、今は過渡期なんだろう。ゴールは『フレキシブルな対〇〇用僕』を作り出せるようになること。こう言うと「八方美人をめざしているのか。」と思われそうだが、別にそういう訳では無い。他人に合わせる以上に、効率良く我を通せるようになることが目標だ。嫌われたい人には上手く嫌われ、好かれたい人には上手く好かれたい。ストレスなく生きるにはこれが一番だと思う。しかし、それにはまだ程遠い。未熟な『対〇〇用僕』はその人の特徴をしっかりと捉えたものですらないし、コミュニケーションを通して生じる瞬間瞬間の距離感の変化に全く着いていけない。「ここはもっと押そう。」「ここは引き時だ。」これが分かれば良いのだが、器用さが足りない。
そういう意味で、今日の僕は大失敗だった。よくもまぁ流れの中で「あっ、これ違うな。」と思えるなと自分でも感心するが、そういう瞬間がとても多かった。集団では、1:1:1:...の瞬間や1:多、多:1といった瞬間がある。複数人に対して距離が大体同じならばこれらの変化に対応する必要性があまりない。何とかなる。ただ、それぞれの人間への距離感が違ったり、集団の中で自分が距離的に歪だったり、そういった時には変化量が著しい。簡単に自分を見失ってしまう。それが(僕に向けて)露呈した日だった。結局、押すタイミングで押し、引くタイミングで引くなんてことは出来ず、押しも引きもしない中途半端な対誰用でもない自分がそこにいた。
最初は「どうなるんだろうなー。上手くいくのかなー。」程度に思っていた。だが予想以上に下手で、何というかショックを感じている。課題は明確になったが、これを改善して『大人』になれるのか、不安が増大した。僕は早く大人になりたい。結局他人からの捉えられ方でしか自分を定義するのは難しい僕だから、集団内でのポジション取りが上手ければ僕は僕を認められると信じている。良く見られたいとかではなく、いや良く見られて嫌なことはないが、それよりも自分の呼吸で生きられる場所を確保することが大事だ。とりあえず、場数を踏んでみないとどうしようもない。21歳も半分以上終わって、今更の出だしだ。周回遅れだろうが、めげずに精進したい。

久々に前向きに反省をした気がする。内容は暗いが僕の心は健康そのものだ。明日からもこうでありたい。

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