詩を読む、ということ。

僕は人が書いた詩を読むのが好きだ。だけど、正直言って全く意味がわからない。
最果タヒさんの詩集をよく買って読む。言葉遣いが優しくて同時に怖いなと思う。彼女の言葉はどうも僕の頭の中では繋がらず、バラバラとしていて、たまに物凄い勢いで琴線に触りに飛んでくる。だから好きだということになっている。
ただ8割、9割くらいは意味がよくわかっていない。抽象的とか飛躍してるとか色々言い方はあるけど、複合的に「何が書かれているか分からない」に尽きる。

詩に限らず、短歌とかでも同じことを思う。短歌は、限られた音の数の中で事象・心象を書き表す。
前に「だから歌人は凄いんだ」とか言って僕の拙すぎる短歌(リンク先、一番下までスクロール!)を引き合いに出したが、僕のあれは超ストレートに31音に情報を過不足なく載せている。まぁ情報量が無いということではあるが、読めば誰でも意味が分かる。
しかし歌人の読む短歌というのは音の数以上に意味を載せている。それがノンバーバルに伝わることもないわけではないが、基本「何言ってるんだろう」という気持ちになる。

だから僕は「わからないのが面白い」みたいな楽しみ方をしている。それは理解しようとする努力と、結局理解できなかったという諦めと、その過程でほっぽり出された理解しかけのままの状態をガバッと抱きしめる感傷だ。悪い言い方をすれば詩を読んでいる自分に酔っていると言ってもいい。
しかし、世の中すごい人がいるもので、詩の解釈とか和歌の解釈をする人がいる。つまり読解の答えを明示してくる人がいる。「おいおい、それって俺がバカだってことじゃねぇか。」と思う。詩は馬鹿には読めない。

色んな人のnote記事を読む。エッセイとかポエムとか、そのジャンルは多岐に渡るが、読めないものが多い。「書きたいことを書けばいい」っていうプラットフォームだからおそらくそんなに読み手のことを意識していない文章も山のようにあるだろうが、それにしたって僕の読解力では手の届かない文章が多い。中高の現代文をそんなに真面目にやってこなかったし、日頃の読書量も大したことないので、読む能力が低いのは自覚している。ただ、ノンフィクションは隙間なく一歩一歩丁寧に歩ませてくれるものが多いので読めてしまう。だからエッセイもポエムもいけるだろうと思ってしまうが、そう甘くはないようだ。

世の中の人はどうやってnote上にある、あるいは他のSNSにある文章を読んでいるのか。そんなに僕は頭が悪いのか。深夜にひとり勝手に哀しくなる。

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