見出し画像

金木犀の木の下には


「井の頭公園の、
 金木犀の木の下にいます」

そう初めて人にしゃべったのは、いつの間にか金木犀の香りがしなくなった頃だった。




坂下。
サカシタではない。
さかもと。

さかもと。
彼をそう呼ぼうと決めたのは、坂下の居場所について自分で自分を紛らわすためだった。
けれどそんな小さなごまかしで、私は坂下のところへ行くのをやめなかった。

ムシャクシャした日の帰り道。
仕送りができそうにない時。
雨が降った日の翌日。

坂下の好きな缶ビールを持って行き、私は金木犀の木の下へ座り込んだ。

彼を坂下と呼ぶのは私だけで、それは坂下が、井の頭公園の坂の途中にある金木犀の木の下に居るからだった。

無論、そのことを知っているのも私だけ。

金木犀の木の下に
今年も、
今日も、
今このときだって、
きっと坂下は居るはずだ。

私の日常はこの繰り返し。

坂下の在処について考えることが、坂下と過ごした私の存在証明だった。





坂下は、肺を患っていたのだと思う。

会えばよく笑い、そしてよく咳をしていた。 
頑丈なつくりの体軀は会うたび、ほころびていった。


今から考えると、金もなく言葉も下手だった坂下は治療する術がなかったのだと思う。

普通に食べて、普通にワンルームのアパートに暮らして、普通に風呂に入り、普通に着替えるということもままならなかったのだから。

坂下はいつ会っても、黒地にオレンジの小花が咲いたような長袖のシャツを着ていた。

私のようなありふれた地味メガネにはとても着こなせたもんじゃない。

坂下の複雑で整った顔立ちには、汚いだとか不潔だとかのまえに、とてもよく似合っていた。

そのシャツを着た坂下はまるで、救い様のないこの世界に温かな祈りを捧げているようだった。







職場から自宅へ向かう途中に井の頭公園があって、私はその人通りのないゆるやかな坂を、遠回りをして帰ることがあった。

秋になると甘い香りがするので、それで私は毎日のように通りたいと願っていた。

坂の途中で、ほとんど坂下は生活の真似事をしていたのだと思う。


ある夜のことだった。

嫌がらせをやめない先輩に浴びるほどの酒を飲まされた日。

帰り道の公園で酔い潰れ、戻していた私に坂下は近づいてきたのだった。


「だいじょぶ?
 みずをのむほうがいいよ」

そう言って彼は闇に消えた。

しばらくして、信用できなそうなペットボトルに入った水を持ってまた現れた。

「おさけ、すきね。
 わたしもすきから」 

暗闇に歯だけが浮かんでいる。

言葉や身なりが質素で、きっと東南アジアから来た出稼ぎ労働者だろう。


けれど街灯によって坂下の顔が照らされたとき、
その笑った顔はこの暗い国にちっとも合わないと思った。



優しくしてくれた礼に、私は坂下を公園近くの焼き鳥屋に誘った。煙がモクモクと店の外まで伸びていた。

坂下は楽しそうに何か発して、その言葉が煙と気が合ったように柔らかくたなびいていた。


空のグラスと客で、店内はごった返している。

「Seseri、
 Bonjiri、
 Shiro…」

焦げた鶏の油の香ばしい匂い。

目の前でテーブルにしがみつくような姿勢の坂下が、平仮名のメニューをおぼつかない発音で読み上げている。

すると突然、生ビールと小皿が私たちの前にどんっと音を立てて置かれた。

「ウホォーーー!」

坂下は歓喜の声を上げ、私の顔にジョッキをぶつける勢いで乾杯を促した。

私たちの席では、焼き鳥の盛り合わせを一つ注文した。
盛り合わせは三百二十円。一本、八十円。

どこの部位かも知らずにかじりつきながら、私たちは翻訳ツールを使い、文字通り話半分でお互いの不確かな輪郭を探り合った。

話によると坂下はまだ二十代前半で、妻と子供が母国に居るらしかった。見せてくれた写真には、坂下と同じ顔で笑う女性と赤ちゃんが映っていた。


それから坂下と私は、金がないからと井の頭公園でよく缶ビールを飲む間柄になった。
夏はビールがすぐにぬるくなって、美味しくはなかった。

坂下は酔いが回ってくると故郷の歌を歌いだすのがお決まりだった。

切ないメロディーと声を聞くたび、私の目の中で井の頭公園の景色が水浸しになった。

知らない国の知らない村の貧しい母子。
きっと私なんかよりずっと貧しいのだ。

坂下はやさしく笑いながら私の肩を叩き、その次には明るい曲を歌い、ちびちび缶ビールを口に運んだ。

ひとつ、ふたつ、みっつ。
咳をして、また歌い、また飲む。

坂下の横顔を見ながら、私はいつか坂下が帰国して、妻と子供に会う日のことを考えていた。



ときどき、坂下を連れて銭湯へ行ったりした。

タオルを頭に乗せる私や、浴槽の中で大の字になる私を坂下は真似た。

背中を流し合うというジャパニーズ風呂ニケーションも教えてあげた。

「きもちいねー」
「あったかい」
「しあわせ」

坂下は私に習って普通の幸せを覚えていった。

上気した坂下の頬を、私は一生忘れないだろう。桜の舞い散る富士山の壁画に、坂下の幸せそうな顔はよく映えていた。

はじめの頃は、よく鍛えられた逞しい背中がうらやましくてたまらなかった。

咳の数が増えるにつれて、坂下の背中は小さく骨ばって見えるようになった。


それ以外について言えば、坂下は何も変わらなかった。どこかで日雇いの仕事をし、井の頭公園の坂を中心に生活をし、家族に仕送りをするために生きていた。

時々顔を合わせれば、あの坂下の笑い顔は私の世界を温かく、甘やかにした。







残業が続き、私は坂下のところへ行けなくなっていた。

部屋には収集日に出しそびれたゴミが溢れ、リモコンの居場所もわからなくなった。

疲れてゴミの上で眠る生活が続き、勝手に引き継いでいた坂下の家族への仕送りが滞っていた。

うまく考えることができなかった。

満員電車で工場へ行き、夜まで働いて、コンビニでお茶と弁当を買って、一間の部屋に帰って食って寝るだけの日々。

ただ、坂下のことだけ気になっていた。

坂下とはもう長いあいだ話していない。


「さかもと。
 まだ、
 そこにいるよね」


一筋の光も入らない部屋で、反響した自分の声が天井から降ってきた。








やっと坂下の所へ行くことになったのは、
二人の警官が早朝にうちを訪ねてきた日だった。

坂下の失踪届が出ていて、私と坂下の姿が公園の防犯カメラに映っていたらしい。

警官は部屋から顔を背けるようにして話した。

「何度も来たんですよ」

その嫌悪の塊のような顔は、
坂下と食べた丸焦げのぼんじりを思い出させてくれた。

坂下の居場所を聞かれた私は、初めてその在処を人にしゃべった。

警官の車に乗せられ、私は井の頭公園の坂の金木犀の下へ連れて行かれた。

坂下の眠っている場所を、私は少しも忘れてはいなかった。

「さかもと」

土の上にひざまずいて、
私だけの坂下の名前を呼んだ。

坂下の上に立つ金木犀からは、もう微塵も香りがしなかった。オレンジ色の小花はすっかり枯れしぼんで、ほとんど落ちてしまっている。

なんだ、秋は終わりかけていたのか。

「…さかもと?
 何言ってんすかね」

後ろで警官たちが顔を見合わせている。

私は伸びた爪で、犬のように土を掻き分けて掘った。

掘って掘って、あの黒地にオレンジの小花のシャツが出てくるのを待った。

掘りながら、涙がこぼれていた。
メガネがぐしゃぐしゃになった。

乾いていた土が涙で湿って、
明るみに出た土の中の虫がうごめいて、
そこへ金木犀の枯れた花が落ちてきて、
もう坂下に会えなかった。

警官たちは怪訝そうに眺めながら、ときどき無線に応答し、報告書に記入している。

坂下にもう会えない。
坂下は死んだのだ。
金木犀の下で倒れていた坂下を、
私はここに埋めた。
たしかに私は坂下を、ここに埋めた。
坂下のスマホを持って逃げて、そのまま坂下のフリをして家族に仕送りをつづけた。
でも、坂下のようにはつづけられなかった。
ときどきここへ来て話しかけた。
でも生きるために働いて、働いて、それで、いつからか来られなくなった。
ごめんな、さかもと。
さかもと。
ほんとにごめん。
早く国に、家族の元に帰してやればよかったな。


ついに、
爪の先が坂下の黒いシャツの袖に突き当たった。

さかもと、やっぱりまだいた。

警官二人が覗き込む。

掘りつづけた。
爪が二つも剥がれ落ちてしまった。

見えてきた、シャツの胸元。

そこには確かにオレンジの小花の柄が見えた。

さかもと、ごめんな。ごめんな。

まだ掘りつづけた。
坂下もたしか、こんな手の色をしていた。
私の手も爪も真っ黒に染まり、坂下とおそろいになった。

朝の光が、木々の合間から差し込んでくる。
眩しくて目がくらみ、私は本当に犯罪者だった。



シャツの下から現れると信じていた坂下は、
もうそこに居なかった。


代わりに、急にシャツの下からあの懐かしい香りがたちのぼってきた。

金木犀の、甘くて泣きたくなる香り。

言葉が下手くそな、
ハンサムで、
笑うとあどけない、
優しくて家族思いな坂下。

歌が上手だった、
貧乏で家無しの坂下。

私より大きなゲップを出そうとして
ビールをがぶ飲みした坂下。

銭湯の後いつも、なけなしの金で買った牛乳瓶を
断っても断っても押し付けてきた坂下。

私が存在する意味をくれた、さかもと。



坂下がここにいる。
そう思うだけで、坂下は私のものだった。



シャツの下にあったのは、
坂下の形にふちどられた沢山の花だった。
新鮮な金木犀の花だった。

もう、とっくに金木犀の季節は終わっている。

坂下はまだ、
咲いたばかりの香りをして
私を待っていた。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?