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「科学の本質」って何? その2:科学の本質の具体的なトピック

 こんにちは。本記事は,前回の『「科学の本質」って何? その1:理科教育におけるその重要性』の続きとなっています。

 今回この記事は,Science Education Book Club in Japanの活動の一環として,オンライン読書会で読んだ本の内容と参加者による議論をまとめたものです。2020年の2冊目の本は,“Science Education An International Course Companion”を読み進めています。

 私はこの読書会にて,対象本のchapter2,“Reflecting The Nature of Science in Science Education”を担当させていただきました。本記事は,本章の内容に関する後半部分に該当します。

 前回の記事を少しおさらいしておくと,Taberは,理科教育の目的として,「科学者・科学技術者の育成」,「科学の文化的側面の理解」,「科学技術社会における市民の育成」の3つを挙げ,これらを達成する上で,「科学の本質(”Nature of Science(NOS)”)」という学習内容をカリキュラムに導入することが重要であると述べていました。また,科学の本質をカリキュラムを導入する上では,いくつかの問題点があるものの,それらは解決可能であり,今後は積極的に科学の本質を導入することを検討すべきであると考えられました。

 では,カリキュラムに導入するべき科学の本質のトピックはどのようなものなのでしょうか。それでは,本記事の本題に入りましょう。

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科学の本質の重要なトピック

 本章でTaberは,8つの科学の本質の重要なトピックを挙げており,それらは完全に独立しているわけではなく,関連しあっていると述べています。

 今回その8つのトピックについて,私が「科学の活動に関する側面」と「科学者集団に関する側面」の2点から整理しなおしたものを紹介させていただきたいと思います。なお,本章の内容を省略・変更しているわけではありません。それでは,まず,「科学の活動に関する側面」からみていきましょう。

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 「科学の活動に関する側面」として挙げられる科学の本質のトピックは,①科学的知識と方法の性質②科学の限界性③文化に埋め込まれた科学④科学の論理と創造性,といった4つになります。それでは,それぞれ順にみていきましょう。

 まず,①科学的知識と方法の性質になります。科学が生み出す知識と,その生み出す過程で用いられる方法にはどのような性質があるのでしょうか。このことを考えるためには,そもそも科学は何のために,どのように知識を生み出しているのか?という科学の目的と方法に振り返る必要があります

 では,まず科学の目的とは一体何なのでしょうか。戸田山(2011)は,科学の目的とは,多くの自然事象を説明したり予測したりすることができるよりよい理論を生成することであると述べています。このことについて,具体例を用いて説明するならば,天動説と地動説にまつわる科学史の事例が挙げられます。具体的には,「太陽や月が東から昇り,西に沈む」という自然事象を説明するため,科学者たちはまず天動説という理論を提唱しました。しかしその後,コペルニクスによって地動説という理論が提唱されました。これら2つの理論はそれぞれ異なる説明の仕方で「太陽や月が東から昇り,西に沈む」という自然事象を捉えていましたが,長らく決着がつきませんでした。そしてさらに年月が経過し,天王星の外側を公転する惑星の存在(つまり海王星)を予測することに成功した地動説がよりよい理論として採用されることになったのです。
 では,次に科学の目的を達成するためにはどのような科学の方法が採用されているのでしょうか。現在,多くの自然諸科学で採用されている科学の方法として,仮説演繹法が挙げられます(戸田山,2011)。ではこの仮説演繹法とは何なのか,みていきましょう。
 先程,科学の目的とは,多くの自然事象を説明したり予測したりすることができるよりよい理論を生成することであると述べました。このときの「よりよい理論」とは,「新しくて正しい理論」であるとされています。したがって,科学の目的を達成するための仮説演繹法とは,新しくて正しい理論を生み出すための方法であるといえます。具体的には,科学者は,観察された自然事象を基に,新たな理論を生成するために,まずは理論の源となる仮説を設定します。このとき,仮説は帰納的推論という思考方法によって生成されて設定します。この帰納的推論とは,個々の事象から新たな情報を含んだ結論を導く思考方法です。帰納的推論はいくつか種類がありますが,例を挙げるならば,「白血球には核がある。神経細胞には核がある…」という観察された個々の事象から,「人間のあらゆる細胞には核があるだろう」という新たな情報を含んだ結論を導く,という帰納法というものが1つに挙げられます。

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 しかしこの帰納法のような帰納的推論は,新たな情報を含む結論を導くことができても,必ずしも結論の正しさは保証しないという注意点があります。例えば,上の図に挙げたように5つの人間の細胞を取り出して,それらすべての細胞に核が観察されたとして,「ほんとに人間のあらゆる細胞には核があるといえるの?」という疑問が残りますよね。したがって,新たな情報を含む結論を仮説として設定したら次は,その仮説の正しさを主張する必要があるのです。
 では,正しさを主張するためにはどうすればよいのでしょうか。科学者は演繹的推論という思考方法を用います。この演繹的推論とは,前提が正しければ結論は常に正しいだろうという思考方法です。具体的には,先述の例を参照するならば,『「人間のあらゆる細胞には核がある」という前提が真ならば,次に観察される細胞にも核があるだろう』という思考方法になります。すなわち,この演繹的推論に従い,科学者は新たな細胞を観察するために検証計画を立案・実行し,実際に新たな細胞が観察されたならばその核の有無を確かめ,検証結果を基に考察を行うことで当初設定した仮説の真偽を判断するという活動を行うのです。
 しかし,ここで注意しなければならないことがあります。それは,設定した仮説を演繹的推論に基づき検証した後,仮説が正しかったというような考察が行えたとしても,その仮説が「絶対的に正しい真理である」という主張はできないということです。これはどういうことでしょうか。先程,演繹的推論とは,前提が正しければ結論は常に正しい思考方法と述べました。したがって,前提が間違っていれば,もちろんそこから導かれる結論も間違ったものになってしまうのです。そして,仮説演繹法における前提である仮説は,帰納的推論によって設定されているため間違ったものである可能性を常に有しています(先程から用いている例で言えば,将来人の体から核のない細胞が発見される可能性はゼロであるとは言い切れません。)。以上のことを考慮して,科学では仮説が真であると判断された場合,「仮説は正しかった」と表現するのではなく,「仮説の確からしさ(蓋然性)が高まった」あるいは「仮説が支持された」と表現します
 以上の整理すると,科学の目的とは,「多くの自然事象を説明したり予測したりすることができる,新しくて正しい理論を生成すること」であり,科学の方法はこの目的を達成するため,帰納的推論によって新たな仮説を設定し,演繹的推論によって仮説の確からしさを検証することであり,このような活動を通して科学は,確からしさが高まった仮説を理論(科学的知識)として提唱する,ということになります。

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 前置きが長くなってしまいました。しかし,先程述べた科学の目的と方法は以降の科学の本質のトピックに大きく関連してきます。では,①科学的知識と方法の性質についてみていきましょう。

 以上のように,科学の目的と方法に振り返って科学的知識を捉えたならば,科学によって生み出される科学的知識は絶対的なものではなく,理論的(変わりうる)であるという性質を有するということがいえます。加えて,このような理論的な科学的知識は,「大まかにしか機能しない」という性質を有することになります。なぜなら,日々観察される自然事象は時として今までみたことのないものが出現します。そして,既存の科学的知識は説明できなくなり,それによって科学はよりよい新たな理論を求めていくのです。
 同様に科学の方法の有する性質はどのようものであるといえるでしょうか。これについてTaberは,科学的方法によって理論は容易に「証明」や「反証」を判断できるわけではないという性質を指摘します。すなわち,先程述べたように,たとえ仮説が証明(支持)されたとしても,帰納的推論によって導いているため,そもそも設定した仮説は常に間違っていた可能性を有しているという危うさ(ヒュームの帰納法の問題)や,一方で,仮説が反証(支持されなかった)されたとしても,それは設定した仮説が問題であったわけではなく,科学者が検証の際に扱った器具や数値の操作を誤ったことによるもの(ヒューマンエラー)であったかもしれません。
 以上のように,科学的知識と方法の性質としては,知識は絶対的でなく変わりうるものであることや,方法によって仮説の証明や反証を判断するのは容易ではないというようなことが挙げられます。

 次に,②科学の限界性についてです。科学の限界性とはなんでしょうか。Taberは2点,「科学と疑似科学との線引き」と「科学自体の限界」を挙げています。それでは順にそれぞれみていきましょう。

 まず,「科学と疑似科学との線引き」についてです。そもそも疑似科学とはなんでしょうか。伊勢田(2003)によると,疑似科学とは「科学のようで科学でないもの」と述べています。では「科学のようで科学でないもの」とはどんなものでしょうか。具体例を挙げるならば,占星術(いわゆる占い)や創造論(全ての生物は神によって創造されたという理論)などが挙げられます。したがって,「科学と疑似科学の線引き」とは,「科学」と「科学のようで科学でないもの」の区別となります。また,科学と疑似科学を明確に線引きすることは極めて難しいとされています。なぜ困難であるかというと,簡単に述べるならば,線引きのためにどんな基準を設けたとしても,正統科学とされる諸科学にも疑似科学と捉えられる領域が出現してしまうし,疑似科学とされる各種領域の中からも正統科学と認めることになってしまう領域が出現してしまうのです(詳細については,後述する科学哲学の各種良書を参照してください)。以上のことから,「科学と疑似科学との線引き」における「科学の限界性」とは,「どこまで科学として捉えられるのか」あるいは「どこまで科学として信用できるのか」という科学という領域の限界を指します。
 次に,「科学自体の限界」についてです。これは「科学はどんな自然事象も説明できるのか?」という問いに変換できるともいえます。一体どういうことでしょうか。これまで科学には,あらゆる自然事象を物理学や化学によって説明しようとする考え方(要素還元主義)がありました。実際,これによって歴史的に多くの自然事象のメカニズムが解明され,科学や技術の発展に貢献してきたことは間違いありません。しかし,地学現象や生物現象といった複雑な自然事象の中には,どれだけ物理学(力学やエネルギーなどの視点)で捉えても,化学(粒子の視点)で捉えても説明できないものも存在します。このような背景を受け,要素還元主義のアンチテーゼとして,複雑な自然事象を「システム」として捉え,自然事象を構成する要素同士あるいは自然事象同士の相互作用に着目して説明しようとする考え方(全体論)などが提唱されました(例えば,森田,2010)。それでもやはり,依然として未だ解明できない自然事象は多く存在し,科学は万能というわけでは決してありません。

 さらに,Taberは③文化に埋め込まれた科学というトピックも挙げています。そしてこのトピックについては,「科学は文化に影響されて理論を生み出す」ことと,「ある理論に対して異文化の科学者集団から代替理論が提出された場合,どちらが有用か評価することは難しい」ことの2点について言及しています。それではみていきましょう。

 まず,「科学は文化に影響されて理論を生み出す」とはどういうことかみていきましょう。科学は,一般的にも理想的にも諸文化から独立した客観的な探究であると考えられています。しかし,先述の通り,科学の営みとしては,偏見や先入観が介在する人の認識を通して自然事象が観察され,仮説演繹的に理論が生み出されます。したがって,科学は完全に文化から独立しているとはいえません。また,文化に影響された偏見や先入観の具体例としては,虹の色(日本7色:アメリカ6色)などが挙げられます。したがって,科学は,自然事象を観察する科学者の経験や生活圏の文化の影響から完全に独立しているわけではなく,偏見や先入観に基づく先行理論(観察の理論負荷性)から影響を受けた科学的知識を生み出すといえます。

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※画像の出典
https://weathernews.jp/s/topics/201809/110055/
https://logos-download.com/18516-apple-logo-download.html 

 さらに,Taberは,「科学は文化に影響されて理論を生み出す」ということについてさらに,「ある理論に対して異文化の科学者集団から代替理論が提出された場合,どちらが有用か評価することは難しい」ということについても言及しています。これはKuhn(1962)の指摘する共約不可能性(あるいは通約不可能性)に由来します。なお,ここでの異文化とは,ある自然事象の説明のために「理論Aを使用する科学者集団A」と「理論Bを使用する科学者集団B」のような,それぞれの研究指針・模範(パラダイム)が異なっていることを指します。共約不可能性について具体例を挙げるならば,「ニュートン力学」と「相対性理論」などが挙げられます(森田,2010)。これらの理論は,歴史的にはまずニュートンが「ニュートン力学」を構築し,その後アインシュタインによって「相対性理論」が提唱されました。また,これらはそれぞれ,物や惑星といった物体の動きに関する自然事象を説明に対して,質量という概念を用いて説明します。しかしながら,これらの理論では物体の質量についての捉えが異なり,さらにその他両者の理論で扱われる言語は一見表記が同じでもその意味が異なるため,パラダイムの異なるまったく別の理論であるといえます。そして,「ニュートン力学」や「相対性理論」のようなパラダイムの異なる理論は,互いに反証しあい自身の理論を強化していく関係であるため,「どちらが有用なのか」について客観的に評価する尺度は存在しません。そして,このような異なるパラダイムの理論間を評価できる客観的な尺度が存在しないことを共約不可能性といいます。このため,ある理論に対して異文化(異なるパラダイム)の科学者集団から代替理論が提出された場合,どちらが有用か評価することは難しいといえるのです。

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 最後に,Taberは④科学の論理と創造性について言及しています。ではこれについてみていきましょう。

 この④科学の論理と創造性とはどういうことかというと,Taberは,「科学はある理論を論理的な手続きによってテストするが,テストされる理論は科学者(人間)の創造性によって提出される」と述べています。このTaberの指摘は,先述した科学の方法に由来します。つまり,このTaberにおける「論理的な手続きによるテスト」とは,演繹的推論に基づく検証のことであり,「創造性による理論の提出」とは,帰納的推論を用いた仮説設定であるといえます。このことを踏まえ,先程掲載した図を整理しなおしたものを再掲させていただきます。

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 以上,①科学的知識と方法の性質,②科学の限界性,③文化に埋め込まれた科学,④科学の論理と創造性,といった4つが,「科学の活動に関する側面」として挙げられる科学の本質の重要なトピックとなります。

※引用・参考文献
伊勢田(2003)『疑似科学と科学の哲学』,名古屋大学出版会
Kuhn, T. S.(1962)“The structure of scientific revolutions”, The university of    Chicago Press
   中山(訳)(1971)『科学革命の構造』,みすず書房

森田(2010)『理系人に役立つ科学哲学』,化学同人
戸田山(2011)『「科学的思考」のレッスンー学校で教えてくれないサイエ
   ンスー』,NHK出版 

 これまで述べてきた4つのトピックは,古くから科学哲学において扱われ,また,国内の理科教育においてもその知見が持ち込まれてその重要性が述べられてきました。しかし,さらにTaberは,「科学の活動に関する側面」だけでなく,国内ではあまり着目されてこなかった,「科学者集団に関する側面」として挙げられる科学の本質の重要なトピックについても述べています。それではその詳細についてみていきましょう。

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 「科学者集団に関する側面」として挙げられる科学の本質のトピックは,①科学者の人間性②科学集団という組織③科学者集団の合意形成,といった3つになります。それでは,それぞれ順にみていきましょう。

 まず,①科学者の人間性についてです。Taberは,扱うべき科学者の人間性に関する科学の本質として,科学者も一般人同様,感情,認知バイアス,野心,偏見を持つということを挙げています。これはどういうことかというと,我々一般人は,科学者は感情をわきに置き,科学や技術の発展といった人類の利益や,自然を理解する喜びだけを追い求めて仕事をしていると考えられている傾向があります。しかし,決してそういうわけではなく,科学者も一般人と同じ人間であるということを述べています。では,具体的な人間性として,感情,認知バイアス,野心,偏見について,それぞれ詳しくみていきましょう。
 まず,感情については,科学者は常に感情を排除して論理に基づき活動しているわけではなく,喜怒哀楽といった感情で言動を発することももちろんあります。次に,認知バイアスについては,科学者は常に論理に基づいた合理的な判断を行うことができるわけではないということを指摘しています。具体的には,科学者は自身が設定した仮説を緻密な計画に基づいて検証した結果,仮説が反証されたという考察ができたとしても,必ずしもすぐさま自身の仮説を棄却するわけではありません。ときには自身の仮説を固持しようと非合理な判断(認知バイアス)がはたらいてしまうこともあります。さらに,野心については,科学者の中にも地位や名誉を追い求める者もいるということを指摘しています。すなわち,必ずしも全ての科学者が,「人類の利益」や「自然を理解する喜び」を第一に研究をしているわけではないということです。最後に,偏見についてです。本章においてTaberはこの偏見についてはとりわけ,科学者集団におけるジェンダー問題を指摘しています。具体的には,科学者集団における女性研究者に対する偏見や差別問題です。また,Taberは,このような科学者集団におけるジェンダー問題の歴史的な事例として,ロザリンドフランクリンに関する事例を挙げています(優秀な科学者であったフランクリンは「DNAの二重らせん構造の発見」に極めて大きく貢献しているにも関わらず,当時同僚の男性研究者からの偏見や差別を受け続け,さらには彼女の重大な科学的貢献も軽視されていました)。
 以上のように,Taberは科学者の人間性に関する科学の本質として,感情,認知バイアス,野心,偏見といった,私たちが素朴に抱きがちな科学者の理想像とは異なる,現実的な姿や彼らの抱える社会的な問題について扱うべきであると指摘するのです。

 次に,②科学集団という組織についてです。具体的にはTaberは,「科学者集団の研究室は,ヒエラルキー,お約束事やしきたり,経済的な制約のある場所である」ことや「人類学的視点でみると,科学者集団は独自の儀式や司祭職を持つサブカルチャーである」ことを述べています。それでは順にみていきましょう。
 まず,「科学者集団の研究室は,ヒエラルキー,お約束事やしきたり,経済的な制約のある場所である」についてです。Taberは,上述のロザリンドフランクリンの事例のような,差別による不当な女性研究者の地位や成果の軽視に加え,研究活動も制限されるようなヒエラルキーも存在すると述べています。また,このような不当な差別に基づくヒエラルキーは,現在改善されつつあると考えられるものの,依然として,各研究室の文化に由来するヒエラルキーは存在するとも述べています。同様に,お約束事やしきたりについても,各科学者集団の研究室における文化によって様々なものがあるでしょう(例えば,一番の若手は備品や薬品の管理,二番目の若手は生物の管理,三番目は…など)。そして,科学者集団の研究室は,経済的な制約があるということも扱うべきだと述べられています。すなわち,各研究室の科学者集団は常に自由に研究を行うことができるわけではなく,与えられる研究費や資金で賄える範囲での研究活動を行っています
 次に,「人類学的視点でみると,科学者集団は独自の儀式や司祭職を持つサブカルチャーである」についてです。これはどういうことかというと,科学者集団を研究室単位ではなく,さらに大きく科学者集団全体という組織で捉えたならば,科学者集団は一種のサブカルチャー的な側面がみられるということを指しています。具体的には,科学者は何らかの科学的発見を確認した場合,それがすぐさま成果と認められるわけではありません。その発見に関する論文を執筆し,それを科学的発見に関連する領域を扱う特定の科学学会や学術雑誌に投稿して,そこでの査読や評価を経てようやく成果として認められます。すなわち,科学者の成果が特定の形式的な機関のみでしか認められないという点で一種のサブカルチャーであるといえる,というわけです。
 以上のように,Taberは科学者集団という組織に関する科学の本質として,科学者集団が所属する研究室や科学者集団全体でみられる,現実的な組織の独自の文化について扱うべきと指摘しています。

 最後に,③科学者集団の合意形成についてです。これは,先程も少し述べたように,科学者が科学の活動(仮説を検証する活動)を行い,それにより得られた成果を科学的な知見として認められるために行う合意形成を指します。Taberは,このことについて,「科学における成功とは科学的発見ではなく,ある成果やアイデアを特定の機関に所属する一部の人々に対して説得することである」ことと,「限られたデータが特定の理解の枠組みを通して解釈され,査読者によって価値があると評価されることで合意形成される」ということを述べています。それぞれ順にみていきましょう。
 まず,「科学における成功とは科学的発見ではなく,ある成果やアイデアを特定の機関に所属する一部の人々に対して説得することである」についてです。先程も述べたように,科学者は何らかの科学的発見や理論を提唱する際,それをすぐさま公表し成果として認められるわけではなく,それらを基に論文を執筆し,特定の学術機関での査読や評価といった過程を経る必要があります。また,この査読を行うのは,該当機関に所属する全員の研究者というわけではなく,選抜された一部の研究者が査読者として役割を担います。そして,査読においては,論文を投稿した科学者は,論文のやりとりを通した査読者との議論を行い,自身の成果は価値あるものであるということを文面上で説得する必要があるのです。そのようにして,説得に成功して初めて,自身の成果が科学における成功であるというコンセンサス(合意形成)が得られるのです。
 次に,「限られたデータが特定の理解の枠組みを通して解釈され,査読者によって価値があると評価されることで合意形成される」についてです。先程,合意形成を得る過程を査読という観点から述べました。それに加え,Taberは,論文(科学文献)は,限られたデータが特定の理解の枠組みを通して解釈されることで,論文を用いた議論を行うことができると指摘しています。これはつまり,投稿者は自身の成果を「主張」するため,その主張に説得力を持たせるための「根拠」として限られたデータを使用し,さらにそれらを既存な理論など特定の理解の枠組みを通して解釈したものを使用するということを指します。したがって,このような論証を論文上で提示することで,はじめて査読者が評価を行うことができるということです。

 以上が,「科学者集団に関する側面」として挙げられる科学の本質の重要なトピックになります。先述のように,これらは従来あまり国内では指摘されていなかったトピックではありますが,どれも理科教育の目的(科学者・科学技術者の育成,科学の文化的側面の理解,科学技術社会における市民の育成)の達成に関連するものであると考えられます。したがって,今後は国内の科学の本質に関する研究においても,「科学者集団に関する側面」を取り上げることや,教師ももちろん理解する必要があるといえます。

本章を読んで気になったこと

 読書会では本章を読んで私が気になったことについても議論させていただきました。そのことについても少し共有させていただきたいと思います。

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 これまで述べてきた本章の内容の結論として,Taberは,「理科教育の目的を達成するためには,広くコンセンサスが得られていない科学者の主張や,真にオープンエンドな考察を招くような現在の科学的論争の事例をカリキュラムに含めるなどして,学習者に科学的プロセス(科学の本質)を実感させなければならない」と述べています。
 上記のTaberの主張は,科学の本質を学校教育で教えるためには,現在科学において議論されない強固なコンセンサスの得られている科学的知識(例えば,光合成のしくみや酸化還元反応など各種理科の学習内容)だけでなく,原発や遺伝子組み換え食品といった,未だ科学的論争の余地が残る事例を扱うべきだという,具体的な提言となっています。

 では,ここで国内の理科教育に振り返った場合,大きく2点の議論するべき内容があるかと思われます。

 1点目は,「どのような学習内容をカリキュラムに組み込むべきか」ということです。Taberは本章において,先述のように,「科学の活動に関する側面」と「科学者集団に関する側面」から複数の科学の本質の重要なトピックを挙げていますが,やはり,その中でも優先順位を検討すべきではないかと思われます。なぜなら,小学校から中学校,あるいは高等学校までの期間において,理科の授業時数はどうしても限られていますし,科学の本質だけでなく従来扱われてきた科学的知識の教育的価値も無視すべきではありません。Taberが指摘するように,理科教育の目的を真に達成するためには,まだまだ考えなければならないことは山積しているといえます。
 2点目は,「現状の国内の理科で,どのように科学の本質を教えるのか」ということです。これは上述の1点目と関連しますが,現実的に科学の本質を教えるならば,学年,単元,教科,教授方法をどうするのか,という疑問が残ります。具体的には,学年については,各学年の発達段階に応じて教えるのか,ある学年から教えるのか,単元については,既存の単元の中に科学の本質のトピックを組み込むのか,あるいは新単元を開発するのか,教科については,そもそも理科で教えるのか,総合という教科で教えたほうがいいのか,教授方法については,既存の学習内容を教える過程で暗黙のうちに科学の本質を教授するのか(間接教授),科学の本質自体を教える時間を設け教えるのか(直接教授),といったことが挙げられます。

 以上のようなことを私は今後も検討していく必要があると考えます。みなさんはどうでしょうか。

 また,本記事を読んでいただいた方に1人でも多く,科学の本質の内容,おもしろさや重要性を理解・共感していただければ幸いです。

Acknowledgement

 最後に,読書会で有意義な議論をしてくださった,雲財寛先生中村大輝さん西内舞さん,ありがとうございました。また,本記事を作成するにあたり,論構成や具体例のアイデアなどについて,弓削(2016)「『科学の本質の理解を促す学習指導に関する研究ー科学の性質の理解と意思決定能力の関係性に着目してー』,岡山大学大学院修士論文」からいくつか参考にさせていただきました。この場を借りてお礼申し上げます。


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