最近の若者の「ブラック嫌い」は深刻

サッカー大迫勇也の出身校として有名な鹿児島城西高校が初の甲子園出場を決めたと話題になっているが、その内容が興味深い。

髪型は自由、練習中に音楽を流す、そういうスタイルで出場権を獲得したらしい。

甲子園事情に疎い自分からすると、城西程の高校が未出場だったのは驚きだ。鹿児島勢といえば神村学園か鹿児島実業のイメージがあるが、今は野球でも城西の時代になるのだろうか。

小学校の制服率が高かったり、民間出身の知事が信頼されなかったりと保守性の高い県だと聞くがもうそういった保守県ですらこういう改革が行われるようになったというのは興味深い。本来鹿児島は明治維新が始まった土地のように新しい事を始める文化があった。


甲子園といえば数年前、奈良の天理高校が少数精鋭で練習中にアイスやコーラを飲食してもよいというやり方で優勝して話題になった事も最新の情勢を反映していると言える。


またこれは林修の初耳学という番組で「教育の新常識」として特集されていたのだが、ラグビーの全国優勝をした強豪校では、むしろ先輩が雑用をし新入生は練習に集中させることで結果を出しているらしい。

余裕のない新入生があれもこれもやらないといけない状況よりも、慣れている最年長が世話をするというやり方で連帯が生まれていくみたいな内容だった。


サッカーでも例えば一年生は一年間一切ボールを使った練習はなく、球拾いと走り込みだけさせられるなんて経験談はプロの選手からもよく聞く。

まあ練習場がなかったり、部員が多すぎてそこで選別しなければなかったりと理由はあるし、そもそも自分はユースより高体連応援の立場なので一概には言えない。


このことを知人に話したのだが「そのラグビー部の方式は、本当に競技が好きで意識高い部員が集まっている少数精鋭の場では可能だけど、普通の部活でやったらうまく行かなそう」と返ってきた。


これも確かに一理ある。

野球の坊主に関しても、結局意識高ければ自主的に坊主にするのではないか。


「坊主でやめる奴はどのみち辞める派」と「坊主が嫌で野球を始めようとすらしない派」で賛否両論が分かれる。

自分としてはそもそも野球漫画の主人公がかっこいい髪型な時点で、もう坊主って時代遅れ感半端ないと思うのだが、甲子園が人気なのは昔懐かしさを高齢者の方々に味わってもらう意味合いもあるのでなんとも言えない。

甲子園がコンテンツとして魅力を保つという差別化の意味では必要だが、ああいった体質が美徳としてもてはやされることは日本社会にとってマイナスだと考える。


まあしかし野球の場合ヘルメットを着用するので単純に蒸れるというデメリットが大きく結局邪魔だという合理的な理由もある。

ただそれを言うと女子も多くやっている剣道でそういった議論は起こらないので、やはりそれはもっともらしい理由で本心ではただ伝統を守りたいだけのようにも思える。

いずれにせよ、衰退国家の日本人が昔の懐かしさに浸りたいだけという状況が個人的に凄く嫌ではある。世界基準のマラソンより箱根駅伝を愛するとかもだ。そういった情緒が目的になっている昨今の日本を見ていると、もうこの国は発展を諦めた衰退国家で昔にしかすがるものがないんだなと悲しくなるのだ。

伝統を大事にする日本文化の精神とも言えるしもちろん新しいものが全てではないが。

サッカーだと女子は意外と自由だが、バレーは逆に女版甲子園といっても過言ではないくらい髪型の規則がキツイ。東京五輪の東洋の魔女時代を未だに引きずっているようで、その体質も苦手だ。

もちろん郷土愛や地元愛の観点から甲子園を愛するのであればそれは健全だと思う、しかし高齢者向けの懐古ポルノとして機能しているのであれば不健全だ。校則で女生徒の下着は白限定だとする気持ち悪さとも通じる。


令和になってもゾンビのように息づく昭和、よく韓国人が日帝残滓だの土着倭寇の積弊だのと言っているが日本はこの昭和残滓を生産しない限りもう先進国には戻れないだろう。


ただ希望はある。

タイトルにあるように、最近の若者はブラックをとことん嫌っている。自分もこの手のテーマをよく扱うように、そういった体質を忌み嫌っている。

日本社会に蔓延する部活体質であったり、労働が美徳であり他人の甘さを許せない体質、自分も苦労しているのだからおまえも苦労しろと強要するメンタリティであったりだ。


先日近場のラーメン屋で夜頃にラーメンを食べていたのだが、狭いカウンター席で隣に男子高校生二人が座ってきた。角の席なのでどうしても話は聞こえてきたのだが、どうやら新入の二人組で野球部とサッカー部の様子。話の内容は部活の不満や近況報告のような感じだったのが片方が「うちの部活めっちゃブラックやで」と発したのだ。


ゆとり世代の自分が高校生だった頃はスポーツに力を入れている高校で運動部は多かったし、中には全国レベルの生徒もいた。自分のクラスはよりスポーツに特化した学科とは違い普通科だったのだが、そんな高校のクラスで一番聞いた言葉が「部活やめたい」だった。

それに実際辞めたやつもいた。というか帰宅部の自分が「辞めちゃいなよ」とそそのかした部分も無いわけではない笑

まぁとにかなんでこいつら辞めないんだろうと思っていたし、我慢する美徳みたいな物が日本人のDNAにあるんだろうなとひねくれて見ていた。いや、もちろんいい部分もあるのだが悪用されているケースが多いのが事実だ。


ただその頃はまだブラック企業という言葉は一般的ではなかったし、ゆとり世代だとわりと昭和の体質に近い育ち方をしている人は多いのも現状だ。部活はそういうものだと思って仕方ないと思っていた世代だ。

昭和の残り香がある時代できっと誰も疑問にすら思っていなかったのだろう。日本で部活というのは青春の象徴として美化されており中々批判しにくいタブーではあるだけになおのこと難しい。まして帰宅部の自分みたいな人間が部活文化を批判すると、必ず陰キャの嫉妬だみたいな感情論に持っていかれるので勇気がいることではある。

部活文化自体はサッカーなどを見ても育成に役立っていると評価しているし、前述のように自分はユースより選手権を評価している。

ただ昨今やっと始まった部活動改革のように、より良い発展をするべきだと思っている。


そういった改革の波が進み、もう今や運動部の生徒達が自分の部活をブラックだと疑うようになった。ブラック校則もしきりに問題視され、日本人のブラック体質の温床であった学校文化にもいよいよメスが入り始めている。


もちろんその学生がちょっと厳しいくらいで安易にブラックだと使っていただけなのかのしれないし、どういう基準で語られていたかまでは分からない。ただもうそれほどこの言葉は一般的になっているのは事実だ。


とある雑誌の記事で最近の若者の就職事情を分析した物があり、そこには「今の就活生は自分がやりたい内容よりも、とにかくブラックかブラックでないかが優先事項になっている」と書かれていた。


正直自分は何が何でもブラックを批判したいという立場でもない。一昔前に根性教育が否定されて、ある意味でゆとり化に傾いた時代があった。その反動として、いま逆に根性論が見直されているという皮肉な自体も起きている。


これまた前述のラグビー部の方式に疑問を呈した知人の意見なのだが「ゲームのステータス振りでこれだけはとりあえず振っていて損はしないというパラメータがあるが、人間においては根性パラメータがそれ」と議論した時に言っていて、そこに非常に納得した。

その知人も社会のレールから外れた同世代というか学生時代からの付き合いなので「俺らは結局根性パラメータが足りなかったんだよ」と自嘲気味に話し合った。


その就活生の話と通じるものとして、単純なブラック忌避だけに行き過ぎると本当に求めている物を見失うのだとも思う。過度な反ブラックの反動が来るかもしれないし、本当に自分がやりがいを感じて給与面が良ければ多少ブラックでも充実することが可能だろう。

ブラックかそうでないかだけ基準にすると、かつてむやみやたらに根性論を否定した時代の二の舞だ。

判断基準は複数必要だ。


つい最近、本田圭佑が「働き方改革の本質は労働時間を少なくすることだけではなく、職場に子供を連れてきたり在宅ワークを増やしたりできるようにすること」みたいなことをツイートしていた。


日本の労働文化というのは態度が史上価値で、どれだけ社会人らしい行動をしているかが重視される。

日本男児たるもの偉大な帝国軍人であれ、という品格の問題になっているのだ。そのため社会人という同じ漢字文化圏にすら存在しないような謎の規範が求められる。

口を開けば社会人として〜と語るのがニッポンのオトナだ。

社会人という言葉の呪縛、社会人ってなんだろう。何となくきっちり仕事をしているような態度、インフルエンザや猛雪、台風の時でも出勤する忠誠心、有給を自分だけ消化しない協調性(笑)、始業時間には厳しく終業にはルーズな犠牲心(笑)がプロの社会人なのだろうか。


現在ニュージーランドではついに週休3日制が拡大しつつある。日本でも週休3日制が存在しているのは事実だ。

ただ日本の場合一日少ない分、他の日の労働時間は多いorその分給料は低いというからくりがある。

ニュージーランドのように生産性の上昇とストレスの軽減と言う事には重きをおいていないのが現状だ。


本田のツイートと同じで、どうも時間が日本の労働文化における市場価値だと考えられている節がある。


ただかと言ってドイツのように自分の仕事を早く切り上げられる有能が早く帰れるだけであって、それができない無能は雇われないので残業はない、みたいなスタイルも日本人には向かない。

ちょうどいい答えを見つけるのは難しい。

まあ今は物を買う時代ではなくなっているし安く物が手に入る時代なので、多少給与は低くても週休3日制がメジャーになってくれた方が良いという日本人は多そうだ。

その時間で副業や何らかの生産をするのも良いだろうし、家庭菜園で育てた野菜を使って料理を作って友達やご近所さんを招待するみたいなタダで行える楽しみ方もある。

老後に2000万貯めろと国が脅迫してくる日本と違い、日本人ほど貯蓄の強迫観念が強くない国では気楽に生きていて幸福度も高い。

そもそも日本人が貯蓄意識が高いのは明治時代に財源を確保するために貯金を奨励したからで、なぜか貯金も美徳となっている。何となく貯金はいいことだと無根拠に思っている。

農耕民族で自然災害に怯えて生きてきた日本人が不安を感じやすい民族なのは仕方ないが、どうもこの社会はいろんな不安を煽り強迫観念を植え付けているように見える。日本人の種族性がいいように利用されてきたし、それが役に立った時代もあった。


宗教が正しいとは思わないが、無宗教国家ゆえに大きな何かに守られているという安心感が希薄なの側面はあるだろう。宗教が根強い国ではそういった心の隙間を埋める役割も果たしているが、日本人は一人で生きていかなければならばいい。

戦前は天皇の赤子であるという安心感があったが、敗戦によりそれがなくなり、経済と仕事というただそれだけが戦後日本人のアイデンティティーを形成してきた。未だに仕事と人間性を直結して考える大人が多いのもそのためだ。


今の日本は、戦後の心の空白を埋めたはずの経済力が失われつつありもはや庶民はまず困窮し、東南アジアの国々から安い観光地として扱われつつある。

かと言って戦前の強固な天皇制の時代に戻ることも難しいわけで、拠り所のないアイデンティティークライシス陥っているというわけだ。かつてのような地域の共同体も失われている。オタク文化やコンテンツといった面でももうもう日本が絶対的な文化強国であり、オタクの聖地だという時代ではない。


金が絶対だと信じ、お金を介さない楽しみを作ってこなかった上にその強みが失われてしまった。

つまり単に労働時間を増やして給料が下がった所で日本人は幸福にもなれず、結局今と同じ状況を選ぶことになる可能性が高い。

本田の言うように、安易な表面だけの働き方改革はうまく行かないだろう。もっと本質を見なければならないし、表面だけの態度や時間を見て何となく「一生懸命度」が下がるから時短した分だけ給料もカットねとなってしまうとやりがいは生まれない。

かと言って今度は韓国みたいにただ最低時給を引き上げるとなると、経営者が採用しなくなるという経済学の悪手に陥る。

本質はストレスの軽減と生産性の向上にあって、その結果自然と給料を上げられるようになるという好循環が重要だ。そして人生の楽しみ方を上手く見つける。

ただ日本人はそのストレスを美徳だと認識しているケースがあって、それが難しい。


むしろ人権面で批判されやすいスポーツ体育会系の世界ほどこういった改革は敏感にされやすいが、到底ブラックだと思われない業界では改革が行われにくい。

例えば吹奏楽部のブラック部活動っぷりは凄まじいが、運動部に比べて問題視されにくく改善されずにいるという事も起こるわけだ。

あまつさえ文化系の場合、コンプレックスからなのか体育会系文化に憧れて逆に体育会系化してしまうことさえある。

ストレスを美徳だと考える文化がここにも生きていて、結局日本人はそういうことが好きなのではないか。そういう遺伝子だからなのか、そういう時代が長く続いたからなのか、現在もそう育てられているからなのかはわからない。

ただ現実問題として日本人はそういう気質の人が多い。


どの国にも美徳や品格の概念はある。

例えば特にラテン系の選手はものすごく家族を大事にするので、勝手に家族のイベントのために南米に帰ったり、カーニバルのために仮病を使ったりなんてことがある。

日本人の場合、それが台風の時にも出勤したり学校に行ったりするというだけのことであって。

皆勤賞という内申に影響する指標があるように、自分も学生時代はなるべく休まないようにしていた。一日遅れたら授業についていけなくなるというような強迫観念だ。

学校側もそう思い込ませようとしている。

自分が考え過ぎなのかもしれないが、皆勤賞の存在が毎日出席することに対する美徳を養っているように思える。

もういっそのことただ毎日学校に行くこともてはやす文化は廃止するべきで、こういった文化が在宅ワークの軽視を生んでいるのではないか。例えばフィンランドでは在宅作業の普及度は高く、自宅で行える作業は家でやってもいいし会議はネットで参加しても良いという考え方は普及している。

ただその場に苦労していけばそれだけで偉いというわけではない。

いわゆるノマドワーカーのように全部自分でやるというフリーランスの世界に限らず、一般企業でもその考え方は普及している。


皆勤賞の概念が海外に無いとは言わないが、どうもしっかり毎日学校に行くことが偉いと洗脳され続けてきた日本人はこの考え方に馴染みにくい。その上、部活文化もあるわけだ。3年間1日も休みがないというのは強豪高校ではよくあることだ。週に一日休みがある部活動はスーパーホワイトで、だから勝てないとも扱われる。


そんな文化風土からすると帰宅部なんて許せたもんじゃないわけですよ笑。世界的に見れば帰宅部なんて至極普通の事なのに、これだけ帰宅部を軽視する国は他にない。

これは本当に日本人に根強い特有の考え方で、まず帰宅部という言葉すらない。

何となく部活が美しくて偉いことだという考えを大人になっても抱いていて、帰宅部はおかしな人間だと考えられる。それ程までに日本社会における部活信仰は強固で、おそらく日本最大のタブーであり聖域の一つだ。正直部活改革がやっと始まったばかりの日本でこの議論は早すぎる。脊髄反射やアレルギー反応のように部活否定論は、理性を欠いて個人の人格の問題として批判される。

正直10年後に書くべき内容であって、今こんなことを言っていても自分は異端でしかない。ただそこにチャレンジするのが厨二病である。

不登校も悪いことだとは言わないけれど、これまでの帰宅部に対する認識というのは準不登校クラスだった。

これは個人の事例というよりも世の中全体としての認識で、自分自身は帰宅部キャラとして楽しんではいたけれども、とにかく日本における仕事という部活の崇拝というのは常軌を逸している。全否定するわけではなく、過度に信仰して根強い土着宗教化していることを問題視したいのだ。


神道というのが日本人の自然な感情から発生し万葉の時代に育まれたように、仕事と部活に対する宗教心というのは現代日本人が持つある種の信仰の領域に達している。

だからこそ抜本的な改革が難しい。

これは韓国における親日派議論とかアメリカの銃規制問題並に複雑で厄介な議題だ。

また治安に対する過度な信仰もあり、ちょっとした改革を拒否するメンタリティもある。


日本人の職に対する精神が職人を生み基礎科学を発達させてきたし、戦前式天皇制崩壊以前の明治時代にも今より厳しいブラック労働文化はあった。何ならイギリスの産業革命時代はもっと酷い。

だから一概に現代の日本だけがとか、日本人だけがとかに断定しようとは思わないし功罪両面ある。

ただ昨今の若者のブラック嫌悪というのは日本人の国民性であったり気質だったりがいよいよ新しくなってきているのかなと感じさせる。

この徴候が良い方向に向かうのか。

前述のようにただブラックでないということだけを求めれば、それは本質とは違うわけで、本当の「脱ブラック」って何だろうということを考えていかなければばらないだろう。

それが令和の日本人に課せられた命題だ。

面白いとおもたら銭投げてけや